2011年5月4日水曜日

【読了】吉川英治『三国志』全八冊

吉川英治『三国志(一)~(八)』
(講談社、吉川英治歴史時代文庫33~40、1989年4月~1989年5月)

確か昨年末から読みはじめ、
4ヶ月かけてようやく読了しました。

特に飽くこともなく、
2週間1冊のペースで
読み進めることができました。

噂に違わず、
さまざまな個性をもった人間の型の宝庫で、

これを小中学生のときに、
夢中で読む機会があったなら、

人と人との織り成す世間の複雑さについて、
もう少し色んな知恵を身につけておけたのに、

と感じました。

吉川氏の達意の文章にも感謝。

私の中の古典として、今後もまた、
読み返していきたいと思います。


一つ難点。
ルビが少なく、恐らく小中学生では、
なかなか読み進められないのではないか、
と思いました。

内容的には、
小中学生のときに接しておきたい作品だと思うので、
総ルビに近いかたちで提供されていたなら、
と思います。


次はまた、
横山光輝氏の漫画版に戻ってみましょうか。

2011年5月1日日曜日

松原泰道『法句経入門』1章 苦諦(前半)



松原泰道(まつばらたいどう)著
『釈尊のことば 法句経入門』

(祥伝社新書、2010年3月。初出は1974年)より。
※印は栗木による。

※なぜ仏教かといえば、
 私にとって一番近くにある宗教が、仏教(浄土宗)であるにもかかわらず、
 仏教と向き合う機会がほとんどないまま今に至っているので、
 その中身をよく知りたい、と思ったのがきっかけです。

 日本人にとっての仏教、
 私にとっての仏教とは何なのか、を考える場合、
 松原泰道氏の一連の著作は外せないように思われました。

 松原氏は臨済宗の方なので、
 その点は考慮しつつ、
 現代の日本人にとって分かりやすい言葉で、
 仏教をどう理解したのか、真剣に受け止めてみたいと思っています。


「『法句経』とは、
 パーリ語のダンマパダ(Dhammapada)を漢訳した経典の名で、
 “真理のことば(法句)”の意味です。

 パーリ語は、
 釈尊が平素用いた古代インドの俗語の一つで、
 釈尊の晩年には聖典要語となりました。
 (中略)

 釈尊が、
 このパーリ語で語った四二三編の詩句を、
 ダルマトゥラタ(二世紀におけるインドの仏教学者)が選集したのが、
 いま読まれている法句経とされています。」3


一章 苦諦(くたい)-人生を苦しくする八つの原因

「『すべては無常なり』と
 知恵にて観(み)る人は
 よく苦をさとるべし
 これ 安らぎにいたる道なり
〔二七七〕」20

「『すべてのものは苦なり』と
 よく知恵にて観(み)る人は
 この苦をさとるべし
 これ 安らぎにいたる道なり
〔二七八〕」20

※苦しさ、というものから、
 人はのがれることができません。

 その現実を、ありのままに受け入れ、
 どんなときに苦しさを感じるのか、

 苦しさのもとになるものを、
 少し突きはなしたところから、
 考えなおしてみることが、

 苦しさが少なく、安らぎの多い
 豊かな心を手に入れる方法だということなのでしょうか。

 四十が近づいて来て、何となくわかるようになって来ました。


〈八苦①〉生まれ、生きることの苦しみ-生苦(しょうく)
「人に生まるるは難(かた)し
 いま 生命(いのち)あるは難し
 世に ほとけあるは難し
 ほとけの法(おしえ)を聞くは難し
〔二八二〕」26

※生まれることが、
 苦しみにつながることもあります。
 願望からいえば、
 生まれることは大きな喜びに包まれていてほしいのですが、
 現実を直視すれば、生まれることが、
 時に大きな苦しみに結びつくこともあります。
 でもしかし、だからどうするのか。
 救いがあれば幸いですが、
 救いがないこともあります。

※ヘレン・ケラー女史の
 「子は生まれてくるとき、親を選べない」
 という言葉を受けて、
 「親も子を選ぶ自由がない」
 と述べられているところは考えさせられました(32頁)。


〈八苦②〉老いることの苦悩-老苦(ろうく)
「たとい 百歳の寿(いのち)を得るも
 無上の法(おしえ)に 会うことなくば
 この法(おしえ)に会いし人の
 一日の生(しょう)にも 及ばず
〔一一五〕」34

※年をとる苦悩。
 ありがたいことに、
 まだそれほど切実ではありません。
 しかし、どんなものかは、
 何となくわかるようになって来ました。

 頭をつかうことが好きで、
 頭をつかう仕事をしているからでしょうか、
 肉体の衰えは徐々に感じはじめていますが、
 頭はまだまだ大丈夫です。

 頭をつかう部分で、
 明らかな衰えが自覚できるようになって来ると、
 それはかなりの苦痛になるでしょう。


〈八苦③〉病(やまい)にふせることの苦しみ-病苦
「この世はつねに
 燃えさかるを
 何の笑い 何のよろこびぞ
 おん身は
 いま幽冥(やみ)につつまれたるに
 何ぞ光を求めざる
〔一四六〕」39

「病気の持つ三功徳
 一、生命力の自覚、
   病気の抵抗力としての健康性や、
   精神の抵抗力が自覚できる。
 二、自然と人生に対する繊細な感情が磨かれる。
   心を柔軟にする訓練の絶好機で、
   もののあわれを知ることができる。
 三、何ものかに祈ろう、
 と思い立つ心が生じる。」40
 (評論家の故亀井勝一郎氏)

※病院にかかりきりで、
 まともに勉強できなかったり、
 仕事できなかったりしたことはないので、
 その点はありがたいのですが、

 あちこちところどころガタが来て、
 少しずつメンテナンスをする必要はでてきました。

 ただ全体としてみれば、
 病の苦しみについて迫真をもって語るには、
 まだまだ元気だと思います。

 元気に産んでくれた
 両親に感謝します。


〈八苦④〉死の恐怖と苦しみ-死苦(しく)
「子たりとも
 父たりとも
 縁者たりとも
 死に迫られしわれを
 すくうこと
 能(あた)わず
〔二八八〕」44

『生(しょう)を明(あき)らめ、
 死を明らむるは、
 仏家一大事の因縁なり』44
 (道元禅師)

※この平和に時代に生を得て、
 死への恐怖も、
 それほど切実なものではありません。
 御先祖様に感謝です。

 恐らくもう少し年をとって、
 死の足音が近づいてくると、
 切実になって来るのだと思います。

 年老いて死ぬ以外では、
 あまり死への恐怖を感じなくて住むのは、
 たいへんありがたいことです。
 感謝、感謝。

2011年4月29日金曜日

マザー・テレサ『日々のことば』6月より

ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』
(女子パウロ会、2009年11月。初出は2000年6月)より。
※印は栗木によるコメントです。

◆6月8日
「喜びは愛。
 喜びは、愛に燃える心の当然の実りです。
 喜びは、なくてはならないものであり、
 眼に見える力の源。
 わたしたちのともしびは、
 愛による犠牲で燃え続けるでしょう。
」182

※喜びを大切にする。
 まずは自分の喜びを。

 自分が喜んでいない状況で、
 相手を喜ばせることができるだろうか。

 自分の心に、
 安定的な喜びの火がともっていることが
 大前提だと思います。

 その上で、少しずつ、周りの人々にも、
 喜びの輪を広げていけたらいいな。

 でも自分の心が
 喜びで満たされているのはどんな時か、
 と考えてみると、

 たくさん寝て、頭がすっきりしているとき、
 仕事し過ぎて疲れていないとき、
 でしょうか。

 まずは健康体であること、
 が大切ですね。


◆6月20日
「遠くにいる人たちを愛するのは、
 簡単なことです。
 インドの飢えた人たちのことを考えるのも、
 とても簡単なことなのです。

 あなたはまず自分の家庭に、
 次にお隣に、
 そしてあなたの住んでいるところ、
 それからあなたの街に、
 目を向けなくてはなりません。
 それから、初めて外に向かうのです。
」195

※どちらかといえば、
 遠くにいる人たちへ、
 惜しみない愛を与えつづけた方のように思えるだけに、
 深みのある言葉です。

 自分と直接関わっていない人たちに、
 間接的に愛を与えること。

 それよりも、まずは
 やはり自分自身を愛し、
 家族を愛し、自分の内側を固めてから、
 はじめて外へ目を向けること。

 言われてみれば、
 当然、身内の方が大切ですね。
 大切な言葉です。

 自分自身にとっても見に染みます。


◆6月21日
「もし、わたしたちが罪でいっぱいなら、
 神はわたしたちを満たすことはできません。
 たとえ神さまでも、
 すでにいっぱいのものを満たすことは、
 おできにならないからです。

 ですから、わたしたちは空っぽになるために、
 ゆるしが必要なのです。
 そうすれば、
 神がわたしたちを、ご自身で満たしてくださるでしょう。
」196

※なぜ祈るのか。

 自らの心のなかが、
 もやもやしたもので満たされていたのでは、
 へり下った謙虚な気持ちで、
 物事を見つめることは難しいでしょう。

 日々祈っていると、
 自分の心のもやが晴れて、
 だんだんと空っぽになっていくのを
 感じることができます。

 私ごときちっぽけな人間が、
 という気持ちを思い出して、
 謙虚な気持ちを取り戻せるようになります。

 月に1回とか、
 週に1回とかでは余り効果はないでしょう。
 それくらい、私たちの心は汚れやすいものです。
 日々の祈りで、
 心の汚れをリセットする週間をもてるといいな。


◆6月22日
「つつましい仕事から離れてはいけません。
 こういう仕事はだれもしようとしないからです。
 仕事が小さすぎるということはありません。
 わたしたちはとても小さいので、
 小さいやり方で物事を見ているのです。
 たとえ、わたしたちがだれかのために、
 ちょっとしたことをしたとしても、
 全能の神は、すべてを偉大なこととして見てくださいます。

 偉大なことができる人たちは、世の中にたくさんいます。
 けれど、つつましい仕事をする人たちは、
 ほんとうに少ないのです。
」197

※どんな仕事も大切。
 むしろ小さくみえる仕事、
 だれもやろうとしない仕事ほど、
 大切だと思っておきたい。

 仕事について、
 一般にあまり評価されないような仕事について、
 ありがたく、大切に思える心を養っておきたい。

 神さまの、もしくは天の与えていただいた縁、
 を大切にして、目の前のことに力を注ぎ込みたい。

 これは、
 わかっているように見えて、
 案外できないことです。


◆6月26日
「わたしは、ことを大規模に進めるのには賛成しかねます。
 わたしたちにとって大切なのは、一人ひとりなのです。
 ひとりの人を愛するためには、
 ほんとうに親しい間柄にならなくてはならないのです。
 もし、数がそろうまで待っていたら、
 数の中に一人ひとりを見失うでしょう。
 そして、もう二度と、
 その人に愛と尊敬とを表すことができないでしょう。

 わたしは一対一の接し方を信じます。
 わたしにとっては、どの人もイエスさまなのです。
 イエスさまはひとりだけですから、
 今接しているこの人が、わたしにとっては、
 この世界でたったひとりの人なのです。
」201

※目の前の一人ひとりを大切に。

 仕事の世界でも同じことでしょう。
 十年先、二十年先のビジョンも大切ですが、

 目の前の一人のお客さまへの対応を疎かにしていては、
 何も生まれてこないでしょう。

 お客さま一人ひとりを、
 イエスさまに見ることは、
 仏教徒の私には違和感がありますが、

 お客さまを物として扱わないのは当然のこととして、
 自分の家族であるかのように扱うこと、
 は、日本ではよく見られる考え方だと思います。

 実際の家族ではないわけですが、
 もし家族だったらどうなのか、
 相手のみになって考えることは、
 どの仕事でも大切んことだと思います。

2011年4月26日火曜日

鈴木鎮一 『愛に生きる ― 才能は生まれつきではない』1章

小中学生のときに、
ヴァイオリンを習わせてもらえたお陰で、
鈴木鎮一氏のことは、物心ついたころから知っていました。

しかし、その深い教育哲学について、
知る機会を得たのは、大学に進学して、
たまたま鈴木氏の著作を何冊か読んでからのことです。



鈴木鎮一著 『愛に生きる ― 才能は生まれつきではない』 
(講談社現代新書、1966年8月。※2009年10月時で、87刷!)


に、鈴木氏の基本的な考え方は凝縮されていますので、
私が共鳴する部分を、数回に分けて、取り上げたいと思います。
※印は栗木によるコメントです。

◆まえがき

「運ということを、
 わたしは否定できません。
 この世に生まれたということ自体が、
 やがて死ぬことと同様に、
 すでにどうしようもないことだからです。

 けれども、よかれあしかれ、
 いったん育てられたわたしたちは、
 死ぬ日まで、自分で生きねばならない。

 するとそこに、
 いかに生きるかという、
 のっぴきならない問題が出てきます。

 育てられなかった能力は自分でつくらなければならない。
 悲運にめげないで、
 よい人生に転換しなければならない。
 それはあきらめてしまってはいけないし、
 あきらめることもない。

 そしてそれは、
 ひとそれぞれに可能なのです。」4

※各々それなりに不平等な人生を、
 いかに生きるか。

 生まれ落ちたときの
 運ということは人それぞれにあります。

 それは生活環境などの外側の問題であることもあるし、
 自分の学習能力などの内側の問題であることもあります。

 現実を受け入れることは大切ですが、
 人の個人的な能力は、
 生まれて後の、学習、努力によって、
 相当程度、補うことができるものです。

 親の立場でよく見極めて、
 適切な助力ができれば、
 それが一番でしょう。

 ただ大人になってからでも、
 勉強の機会さえ怠らなければ、
 知的な能力については、
 相当程度、アップさせることが可能です。

 自らの努力によって、
 自分の能力はそれなりに
 つけていくことができる、と考えます。


◆1章 能力は育てるものだ

「たしかに、人間も同じことで、
 なにをするにしても、やり始めはゆっくりですね。
 能力が身につく手続きには時間がかかる。
 でも、やがてついた能力が、
 さらに高い能力を育てるということはまったく事実ですね。

 もうだめだとあきらめてしまうと、
 せっかく育ち始めていた能力も、
 外に現われずにしぼんでしまう。
 そこを忍耐強くくり返す。
 そうすれば、りっぱに育ってくる。」17

※新しい能力の身につき方。
 せっかちにはならないこと。

 正しい方法で、
 ゆっくりとしつこいくらい
 くり返していくことが大切だと思います。

 しかしただくり返せば良いわけではなく、
 正しいやり方で、くり返すことが大切です。

 とはいえ、正しいやり方かどうかは、
 自分ではなかなかわからないので、
 良い先生との出会いが、
 とても大切なものになって来るのだと思います。

 一人で勉強せざるを得ない場合は、
 謙虚な気持ちで、
 絶えずこのやり方でいいのかどうか考え、
 良いものに出会えたら、
 いつでも改める覚悟をもつことが必要でしょう。

 諦めたらそこで終わりなので、
 諦めずに続けることが大切です。


「人間のひとりひとりの姿には、
 それぞれの歴史が刻みこまれています。
 その能力も、感覚も、心も。
 ひとそれぞれの顔、その目を心して見るとよろしい。

 そこには、
 生きてきたその日までの生活の歴史があり、
 全人格が現われています。
 そしてまた、
 その歴史の刻印は、
 その人生の歩みとともに刻々変化していきます。」22

※生まれつき、ではない部分に目を向ける。

 人を見る目を養うには、
 自分自身が日々精進して、
 自分を高める努力を怠らないことが大切ですが、

 若いうちに色々な経験を積んで、
 人間のどろどろした側面も、
 それなりに見ておいた方が良いのかもしれません。

 人はまずは見た目で評価されるものですが、
 その人の内面にもつねに目を配り、
 一見パッとしない感じでも、
 逆に少し刺のある感じでも、
 結果として評価される組織であれたらいいな。

 でもやはり、
 人一人の評価とは、
 軽々しくありたくはない。

 たまたま自分の組織とは縁がなくとも、
 他では大活躍する可能性を秘めていることを
 忘れずにいたい。


「能力は生まれつきではない」22
「環境にないものは育たない」29
「乳児の素質は知りようがない」29

※正直なところ、
 生まれついての個々の能力の差は、
 それなりにあると思います。

 ただ確実なのは、
 そこに逃げ込んだところで、
 何も解決しない、ということです。

 一個人としての対応としては、
 自分の能力の成長を信じて、
 自分なりの努力を続けていくこと、
 それしかないと思います。


「すべての文化的能力は内部から遺伝によって発生するのではなく、
 外の環境条件に順応して、内部に育つのである。

 遺伝として生ずる人間の優劣をいうならば、
 能力の獲得、能力形成の力の優劣、
 つまり、環境に順応する能力の感度と速度との優劣の問題である。
 こうわたしは考えるのです。

 したがって、
 すぐれた素質をもって生まれているということの意味は、
 環境に順応する感度・速度がすぐれているということです。」31

※すこし抽象的ですが、生まれつきというもの、
 素質というものへの、基本的な心がまえとして大切な考え方です。

 鈴木氏は、能力を自ら獲得し、
 自ら形成していく力に優劣があることは認めています。
 つまり個々の能力によって、環境に順応する感度、速度については、
 生まれながらに優劣がある、といっているのです。

 しかし文化的な能力については、
 個々の素質に合わせて、
 正しい方法で、日々の努力をくり返していけば、
 必ず達成できる、と言っているのです。


「『先生、うちの子はものになるでしょうか。』
 おかあさんのこの問いに、わたしは笑って答えました。
 『いや、おかあさん、ものにはなりませんよ。』
 (中略)
 『しかし、お子さんはりっぱな人間になられます。
 それだけでいいではありませんか。
 ものにならないなら、
 むだだからやめさせようという意味がふくまれるのはいけません。
 ものになるかという考えには、
 うちの子は使いものになるか、
 悪くいえば、くいものになるかという
 いやらしさがひそんでいるとも考えられます。

 すこしでもりっぱに、
 より美しい心のひとに、
 そして幸福な道へ……
 子どもを育てる親としての心配はそれだけでじゅうぶんでしょう。
 人間としてりっぱに育てば、
 りっぱな道がひらかれ、
 人間としてだめにしてしまえば、
 子どもはだめな道を歩いていく以外になくなるのです。

 お子さんのヴァイオリンはりっぱに育っています。
 おかあさん、わたしたちは、
 心をますますりっぱにするように努力しましょう。』」34

※子どもの何を育てるのか、
 どこに目を向けるのか、つい忘れがちなので、
 気をつけたい言葉です。

 人間としてりっぱに育てること。
 これ以上に大切なことはありません。
 すべてはそのための教育であることを、
 つねに忘れないようにします。

 テストの点数も大切ですが、
 そこに至る過程で、何をしたのかを大切にしたい。

 人それぞれなので、
 こうすれば絶対にうまくいく、
 ということはないはずです。

 一人ひとりに真剣に向き合って、
 この子にとって、一番大切な向き合い方は何か、
 考えて行動していきたい。

 教師もまた、
 そうした日々の努力によってこそ、
 磨かれるのだと思っています。


『先生と親とが降参するまでやりましょう。』38
「子ども・母親・先生が一体となっての恐ろしい努力でした。
 そして不可能と見えたことが、
 やり続けているうちに可能になった。
 降参したら不可能のままで終わったはずの能力が生まれた。
 目に見えないわずかずつの能力が新しい能力を助け育てて、
 ついに一つの大きな能力になったのです。」39

※教育は根くらべ。
 親より先に、
 子どもより先に、諦めないこと。

 本人が何とかしたい、
 と思って、努力をしている子に対しては、
 何がなんでも結果を出してあげる、
 できるかぎりの助力をしてあげる、
 のは当然のことだと思います。

 ただし、わりと今は、
 はじめから気力がなく、
 がんばる気がなく、
 どうせ私はできないから、
 とすべて諦めてしまっている子が多いようです。

 そういう場合は、
 やはり自分自身の問題なので、
 あの手、この手を使って
 まず本人のやる気を引き出すことが必要です。

 ただし根が深いと、
 かなり時間がかかることが多いです。
 基本は、信じて受け入れて、期待して、
 待ち続けることだと思います。

 こちらが諦めてしまわないことが大切です。


「能力は生命である」40
「人間のすべてをつかさどっているのは生命の力です。
 生きようとする生命活動……
 それが環境条件に応じて大きな力を発揮します。

 ただ、鍛えることによって、
 人間の生命活動は本来の姿を現わし、
 能力を生みます。

 その能力は、
 さらに休みなく訓練することによってすべての困難を解決し、
 より高い能力となっていきます。」40

※能力を育てるとは、
 自分の生命の力を信じることなんだ、
 ということは、いわゆる学校の勉強だけをしていると、
 わかりにくいかもしれません。

 でもスポーツや芸術の世界についてみれば、
 それはよく分かることだと思います。

 生命のというものから、
 人間の能力というものを見つめ直し、
 その能力を育てるにはどうしたら良いのか、
 根本的に深いところから考え直し、
 実践されたのが、

 鈴木氏の偉大さだと思います。

皇后陛下 『橋をかける』

子供のときに、
良書に親しむことがいかに大切なことか、
美しい日本語でわかりやすく語りかけてくれるのは、



美智子皇后陛下の講演録
『橋をかける 子供時代の読書の思い出』
(文春文庫、平成21年4月。初出は平成10年11月)
です。

同書には、
平成10年にインドのニューデリーで開催された
国際児童図書評議会(IBBY)の第26回世界大会おける基調講演と、
平成14年にスイスのバーゼル市で開催された
IBBY50周年記念大会の開会式におけるお祝いの挨拶が収録されています。

私が特に感銘を受けているのは、次の一文です。
(講演録「橋をかける 子供時代の読書の思い出」36~38頁より)

「今振り返って、私にとり、
 子供時代の読書とは何だったのでしょう。

 何よりも、
 それは私に楽しみを与えてくれました。
 そして、その後に来る、
 青年期の読書のための基礎を作ってくれました。

 それはある時には私に根っこを与え、
 ある時には翼をくれました。
 この根っこと翼は、
 私が外に、内に、橋をかけ、
 自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、
 大きな助けとなってくれました。

 読書は私に、悲しみや喜びにつき、
 思い巡らす機会を与えてくれました。
 本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、
 私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、
 どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、
 本を読むことによってでした。

 自分とは比較にならぬ多くの苦しみ、
 悲しみを経ている子供達の存在を思いますと、
 私は、自分の恵まれ、保護されていた子供時代に、
 なお悲しみはあったと言うことを控えるべきかもしれません。
 しかしどのような生にも悲しみはあり、
 一人一人の子供の涙には、それなりの重さがあります。
 私が、自分の小さな悲しみの中で、
 本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。

 本の中で人生の悲しみを知ることは、
 自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、
 他者への思いを深めますが、本の中で、
 過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは、
 読む者に生きる喜びを与え、
 失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、
 再び飛翔する翼をととのえさせます。
 悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには、
 悲しみに耐える心が養われると共に、
 喜びを敏感に感じとる心、又、
 喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。

 そして最後にもう一つ、
 本への感謝をこめてつけ加えます。
 読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。
 私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。
 人と人との関係においても。国と国との関係においても。」


良書に親しむことは、
大人にとってもたいへん有意義なことだと思いますが、
とくに子供時代に良書に親しむことの大切さについて、
誰にでもわかる言葉で語りかけられています。

人間にとって、
まず経験が第一なのは言うまでもありませんが、
一個人が経験できる事柄はごく限られた範囲に過ぎません。

経験したことがすべてだ、と思ってしまうと、
個人の思い上がりをまねきやすくなるでしょう。

個人の経験の足りないところを補うためにも、
読書の果たす役割はたいへん大きいと思います。