2011年9月6日火曜日

スマイルズ『向上心』第5章(上)



サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)著、竹内均 訳
『向上心(CHARACTER)』
(三笠書房、知的生きかた文庫、2011年6月改訂新版)より。

第5章 よい人間関係をつくる


人の立ち居ふるまいは、
 ある程度その人の人格をあらわすものだ。
 心の奥にひそむ本質を外の世界に向かって説明してみせるものであり、
 その人がこれまで過ごしてきた社会的環境をはじめ、
 趣味や感情、そして気性などがそれによってわかるのである。
」167

※立ち居ふるまいに、
 自分の人格がにじみ出て来る。
 それだけ、外の世界に自分をさらすのは
 怖いことです。
 でもしかし、人に見られるのが嫌だから、
 ひきこもってしまおう、という選択肢は
 現実的でないわけですから、
 ほどほどにその怖さを自覚しながら、
 前を向いて、正直に、一歩ずつ生きていくしかないのでしょう。


気品のある礼儀は、
 洗練された精神には欠かすことのできない
 感受性とでもいうようなものから導かれてくるものである。

 この観点から見ると、
 感受性は才能や学問に負けないほど大切なものであり、
 人間の趣味や性格を決定するうえでは
 その二つよりも影響力が強いとさえ言えるかもしれない。
」168

※感受性を育てること。
 よいセンスを身につけること。
 それは一般に、流行に乗ることと言い換えても、
 それほど間違いではないのでしょう。

 世間にもまれながら生きていくほかないのが
 人の定めである以上、ある種の社会の波をつかむことは、
 生き残ろためにどうしても必要なのだと思います。

 でもしかし、目指すのは、
 軽薄に近づくことではありません。

 自らの精神を瑞々しく保つため、
 明るく朗らかな人生を自ら歩むため、
 感受性、という観点は忘れないでいたい。 


思いやりの気持ちは、
 他人の心を開く黄金の鍵である。
 相手を思いやれば、
 それが物腰の柔らかな礼儀正しさとなって自然に表われるだけではなく、
 相手の心を見抜く洞察力を与え、
 知恵をも広げてくれる。
 思いやりの気持ちは
 人間性の美しさの中でも最高のものと言っていいだろう。
」168

※思いやりの心。やさしい心。
 それは健康な心。


礼儀正しさとは美しい行為以外の何ものでもない。
 『美しい姿は美しい顔にまさり、
  美しい行為は美しい姿にまさる。
  美しい行為はすぐれた彫刻や肖像画よりもわれわれに感銘を与える。
  すなわちそれは最高の芸術作品なのだ』
 とは、よく言ったものである。
」169

※かたちも大切。
 かたちだけが大切、なのではないが、
 かたちも、大切です。


しかし、
 美しさを超えた本当の礼儀正しさは
 誠意から生まれる。
 心の底からほとばしり出たものでなければ、
 感動も薄い。
 誠実さのない礼儀などはあり得ないのだ。
」169

※心のこもっていない礼儀正しさは、
 相手につたわらない。
 かえって相手に失礼なことだと心得る。


礼儀正しさは親切心である。
 他人の幸せをいつも考え、
 不愉快な思いをさせたりするような行いは
 けっしてしないことである。
 それは他人に対して親切であるばかりか、
 自分も感謝の気持ちを忘れず、
 やさしい行為を素直にありがたく思うことでもある。
」170

※他人の幸せを願うこと。
 自分ではなく、他人を。
 自分ではない。



心くばりとは、主として他人の人格を尊重することである。」170

※自分を捨てなさい、という教えを、
 学校では聞いた覚えがありません。


『悪意とひねくれ根性の二つは、
 人間が持っているぜいたく品の中でも
 いちばん高くつくもの』である。
」171

※悪い性格は、意志の力で治していきたい。


育ちのよさと悪さがはっきりと表われるのは、
 その人が人間関係を保っていくうえで、
 いわゆる自己犠牲の精神をどれくらい発揮できるかによる
 といっても過言ではない。
」172

※ここまで具体的にいってもらえると
 ありがたいです。


すなわちおそらく無意識にであろうが、
 彼は金持ちにも貧乏人にも、
 召使であろうと客として招いた貴族であろうと、
 まったく同じような思いやりのある明るい愛情のこもった態度で接した。
 おかげで、どこへ行っても彼は人びとに幸せをもたらし、
 自分も幸せになった。

 (宗教家キングスレーの語る、シドニー・スミス)174

※心配りのできる人が、周りに何をもたらすのか。


財布の中に金がなくても礼儀を守ることはできる。
 礼儀正しさはいつでもどこでも役立つ貴重品だが、
 無料で買える。
 生活必需品の中でもいちばん安い。
」175

※本当はお金の問題ではないのだが、
 お金より大切なものとして、
 礼儀があることを忘れないでいたい。
 日々の喧騒の中で、お金お金とならないように。


礼儀作法を教える最初にして最高の学校は、
 人格の場合と同じく家庭であり、
 そこでは母親が先生である。
 一般的意味における社会的マナーは、
 よかれ悪しかれ家庭という集団でのマナーの反映にすぎない。
」176

※やっぱり家庭が基本。
 後からの修正も可能なことですが、
 しなくてよい苦労、10倍増し、100倍増しの苦労を
 背負わなくてはなりません。
 気がついたら、りっぱな礼儀を身につけいていた、
 というのがベストでしょう。


われわれはみな、
 ほとんど加工されていない宝石のようなものである。
 宝石本来の美しさと輝きを引き出すには、
 自分よりもすぐれた人たちとつき合って磨きをかけなければならない。
」177

※賛成です。


才能は力であり、
  機転は特殊技術である。
 才能はおもしであり、
  機転ははずみである。
 才能は何をなすべきかを知り、
  機転はいかになすべきかを知る。
 才能は尊敬に値する人間をつくり、
  機転はただちに人びとの尊敬を集める。
 才能は財産であり、
  機転はすぐに使える小出しの金である。

  (ある評論家)178

※才能と機転。なるほど。



洗練された身のこなしを見せても、
 心の中は腐り切っているかもしれないし、
 一分の隙もない礼儀正しさも、
 結局はにこやかなゼスチュアと美辞麗句を
 並べ立てただけにすぎないかもしれない。

 これとは反対に、
 豊かな人間性を持ちながら礼儀を知らなかった人たちも、
 時にはいたということを忘れてはならない。
」179

※でもしかし、礼儀より大切なものがある。
 内実を見落とさない、目を養いたい。


気品のあるマナー、
 礼儀正しい行為、
 優雅な身のこなし、
 そして人生を美しく楽しくしてくれるすべての芸術は
 養成する価値はあるが、
 誠実さ、実直さ、
 正直などという、
 人間としてはもっと基本的なものを差しおいてまで身につける必要はない。

 美の根源は目に映るものではなく心の中になければならないし、
 もし芸術が美しい人生を生み出さず人格を高揚させるものでもなければ、
 あまり役に立っているとは言えない。
 丁寧な礼儀作法は、
 心のこもった動作を伴わなければ意味がない。
」185

※結論。


誠実な勇気は、
 山ほどの優雅さにもまさる。
 純粋さは気品にまさり、
 心と身体の清潔さには
 どんなすぐれた芸術品もかなわない。
」185

※誠実さをつらぬくには、勇気がいる。

2011年9月1日木曜日

松原泰道『法句経入門』2章 集諦 (中)

松原泰道『釈尊のことば 法句経入門』
(祥伝社新書、平成22年3月。初出は昭和49年)


第2章 集諦(じったい)―無常と執着を乗り超える


(承前)



愚人は
 いたずらに利益と名誉を追う
 家(うち)にあっては
 みずから 嫉みを起こし
 外にあっては
 奉仕を求めて やまず』(七三)102


お金がすべて、序列がすべて
 という生き方では、組織のなかで、
 嫉妬の鬼となって、自滅への道を歩みがちです。


 組織の外に出ても、
 自分がエライかのように思い上がって、
 みずから争いの種を作りがちです。


 大切なのは、
 私もただの愚人であることを、
 深く知ることだと思います。


人間の悪しき心を描いたのが、地獄の思想。
 源信の労作『往生要集』に詳しく描かれています。
 (以上、松原氏の本文を要約)




『いま歩いている道が、
 そのまま地獄に通じる道であり、
 あるいはそのまま地獄に変わる、
 そういった現象がうかがわれる』
 (石田瑞麿『悲しき者の救い』)105


「私は、人間は誰しも地獄の中に生きるとともに、
 誰もが地獄を自分の身に持っていると思います。」105


「地獄界は『憎しみや他を審(さば)く
 身・口・意の三業(略して業)の営みの成果』で、 
 憎しみをもととして他を審(さば)く生き方をするかぎり、
 私たちは地獄以外に行く先はないのです。」106


「地獄を、
 未来にだけ考える必要はないのです。
 むしろ現在の自分の生きざまに、
 自分の誕生前歴を読みとるべきです。
 地獄で象徴される人間の底にひそむ、
 どす黒い強烈な生命欲(無明という)が、
 現実の人間を苦しめるのです。
 地獄は結果であるとともに、
 原因となるものです。」108


地獄について学ぶことは、
 自分の心にひそんでいる悪の数々を学ぶことに等しい。
 この示唆はたいへん勉強になりました。
 『往生要集』は前から気になる書物なので、
 今後、手元に置いて、味読したいと思っています。





悪を
 ふたたびなすなかれ
 悪の中に
 楽しみを持つなかれ
 悪の蓄積は
 堪(た)えがたき苦痛と
 なればなり』(一一七)109


小悪を
 軽んずるなかれ
 水の滴(したた)り微(び)なりとも
 ついによく
 水瓶(かめ)をみたすべし』(一二一)109


悪を遠ざける、知恵をもつ。
 まず小悪を軽んじないこと。


「私たちは、
 盗みとか殺しとかいう身体でする悪業(あくごう)には、
 深い悔いを持ちますが、
 口でする悪には、
 それほど痛みを感じません。
 実はそれだけに過ちを重ねやすいのです。」110




『わたしは若いころからこわいものばかりでした。
 地震・雷・火事・親爺といいますが、
 まだまだほかにも恐ろしいものがたくさんあります。
 しかし、このこわいものや恐ろしいものがあるから、
 今日まで正しく生きてこれたのです。
 こわいものがあるのは、しあわせです。
 今のお方には、こわいものが何もないのがお気の毒です。』
 (小泉信三先生の、ご友人の言葉)111


こわいものがあると、
 悪から遠ざかりやすくなる。
 なるほどなあ、と思います。
 若いころのわたしには、
 あまり怖いものがなかったように思います。
 でも意図して、こわいもの、
 畏怖すべきものをもつように心がけてからのほうが、
 心穏やかな生活を送れるようになって来たように思います。


「地獄の図絵は、
 私たちの心に秘められている未発の多くの悪を、
 あらゆる角度から展示しているのです。
 今はそうではないが、
 いつかはこれらの悪が爆発するに違いないと、
 自分自らに予言して、
 事実とならぬようにつつしむのです。」113


『道を求むるものには“後で”ということはない。
 気のついたらそのときに清めることだ。』
 (京都の東福寺に住した高層・鼎州〔ていじゅう〕)113





心 恣(ほしい)ままなる人には
 愛欲の枝葉(えだは)は
 日増しに茂らん
 林中(りんちゅう)に果実(このみ)をむさぼる
 猿(ましら)のごとく
 情念は
 猛(たけ)りおどらん』(三三四)114


※源信の設定する第三の地獄「衆合地獄」が頭に浮かぶ(松原)。


愛欲がときに罪に結びつくことは、よくわかります。
 愛欲がなければ、生命をつむいでいくこともないわけですが、
 ときに、苦しみに結びつくこともまた事実です。


「ただ機会がないだけで、
 いつ暴発するか予測できない愛欲の不発弾を持つのが、
 人間であることを学ぶべきです。
 これらの地獄で示される人間感情が、
 苦の原因です。」117





手に傷なくば
 毒を持つべし
 傷なきものを
 毒は害(そこな)わず
 悪心なきものを
 邪悪は 犯(おか)し得ざるなり』(一二四)118


「手に傷がなければ、
 手は冒されません。」118


しかし、手に傷があるのは、
 現実の世界に生きている限り、
 避けることができません。


「私たちの周囲は病毒と害悪でいっぱいです。
 つねに毒にさわり、
 悪に触れなければ生きられません。
 それに私たち自体が、
 心身ともに傷だらけです。」119


「毒に侵されぬ無傷の手を持つものはない」120


人は皆、
 生きているかぎり、
 手に傷を作り、
 その傷から毒がまわって、
 苦しむことは避けられない、


 じゃあ、どうするべきか。
 解決は容易でありません。
 でも、容易でないことを知ることが、
 まずは大切です。

松原泰道『法句経入門』2章 集諦 (上)

松原泰道『釈尊のことば 法句経入門』
(祥伝社新書、平成22年3月。初出は昭和49年)

第2章 集諦(じったい)―無常と執着を乗り超える

前章において、
 『人生の様相は苦が実情である』と、
 その実態を知りました。
 その苦も感覚に止まらず、
 苦が人生の事実であることが明らかになりました。
 すなわち『苦諦(くたい)』を学びました。
」89

ここでは『人生の苦の原因』を学ぶことになります。
 苦が起きる原因の真理を『集諦(じったい)』といいます。
 『集』は『ものが集まり起こるための原因』です。

 この原因は、
 大きく渇愛(かつあい)と無常に分けられる
」89

 ※苦は現にそこにあるもの。
  避けがたく、また受け入れる他ないものです。
  なぜ人が苦しむのか、
  考えたから、苦しみがなくなるわけではありません。
  しかし、その原因がわかることによって、
  苦しみが少し軽くなるのも事実です。

  渇愛と無常、の二つの心のもちようが、
  苦をもたらす大きな要因になっていることについて、
  考えを深める一章です。


強欲(ごうよく)にたとうべき烈しき
 火はなく
 怒りにくらぶべき強き
 握力(あくりょく)はなく
 愚痴(ぐち)になぞらうべき細かき
 網(あみ)はなく
 愛欲にまさる疾(はや)き
 流れはなし
』(二五一)88

渇愛というのは、
 私たちがいたるところで、
 悦楽を欲求してやまぬ心の渇(かわ)きの現象です。
 その渇きの現われの一つが強欲(貪り むさぼり)で
」す。

心が渇いているから、
 火は燃えさかるばかりです。
 あらゆるものを焼きつくします。
」89

渇愛は、満たされないと憎しみに反転します。
 憎しみはさらに怒りとなって爆発します。
」89

渇愛は、また愚痴(妄想 もうそう)に変身します。
 『妄想』とは、真実でないものを真実と誤認すること。
 すべてを誤解で包んでしまう。
」89

 ※渇愛とは「心の渇き」です。
  心の渇きが、
   強欲、憎しみ、怒り、愚痴、妄想、愛欲
  に転じるとき、大きな苦の要因となるわけです。
  しかし心が渇くのは、
  我々がふつうに生きているあかしでもありますので、
  解決は容易でないことがわかると思います。


平生は、みんなが善人なんです。
 少なくとも、みな普通の人間です。
 それが、いざというまぎわに変わるんだから、
 恐ろしいんです―
』(夏目漱石『こころ』)91

“善人”のどこかに、
 どす黒い渇愛がひそんでいるのです。
 それが、ときとして火を呼び水を招き、
 死を求めて止まないのです。
 自分をも他人をも、
 苦しめずにはおかないのです。
」91

 ※誰でもの心に、
  渇愛がひそんでいる。
  これはよくわかることではないでしょうか。



よき師に
 終身(しゅうしん)学びて
 学ばざるあり
 匙(さじ)の汁(しる)に浸(ひた)って
 風味(あじ)を知らざるに似たり
』(六四)92

われ以外は、みなわが師なり』(吉川英治氏)94

人間は傲慢になると、
 自分の周囲の師が見えないのです。
 会っていながら会っていない
」94

人間をよく凡夫といいます。
 『凡夫』は無知の人ではありません。
 何もかもよく承知しながら、
 なお愛着に迷うのが、凡夫であり人間です。
 そこに、知識とは別に、
 知恵を覚ましてくれる師や教えが求められるのです。
」95

 ※良き師に出会うこと。
  いわゆる学校の先生だけを思い描いていると、
  それはごくまれにしかないことのように思われます。

  しかしもう少し視野を広げて、
  人間とは限らない、動物、植物、大自然をも
  わが師である、と考えると、

  様々な自分の苦しみを解き放ってくれる
  わが師はどこにでもいることがわかります。

  またそうした師を多くもつことは、
  とかく傲慢に陥りがちな自分の心を修正していく上で、
  とても大切なことのように思われます。


人間をじんかんと読むとき
六道(りくどう)の中の
 地獄・餓鬼・畜生・修羅と天の『間』に『人』が置かれています。
」95

私は、一日のうちに幾度も
 怒ったり憎んだり短気を起こす『地獄』の世界から、
 あつかましい欲望に狂う『餓鬼』、
 本能を逞しくする『畜生』の世界の間をさ迷います。
 さらに他と争う『修羅』、
 はては根無草のような淡い快楽や幸福に有頂天になる
 『天』の世界の間をうろつきまわります。
」95

『人』は『間』を苦しむとともに、
 『間』を考える存在でもあります。
」96

 ※人の心は弱いもの。
  地獄から飢餓、畜生から修羅、天へと
  目まぐるしくうつろいゆくもの。
  独善的な状況に陥らないためにも、
  わが師をもつことが必要だ。


“袖触れ(振りとも)合うも多生(他生とも)の縁”
多生の縁とは、
 私たちがこの世に生まれるずっと前から幾度も生まれ変わる、
 その間に結ばれた数多くの因縁で『宿縁』ともいいます。
」96

現代人は、隣人はもとより、
 血縁者にもことさら無関係をよそおいます。
 宿縁どころか、
 明瞭な現在の縁をも無視し、断ち切ろうと、
 無作法の態度に出ます。
 他者に関心を持つときは、敵対関係におきます。
 そして、最後には孤独の苦をかこつのです。
」97

人が『人間』であるためには、
 この『間』を豊かに結びあうことにある、とわかると、
 『人間』の言葉にずしりとした重さを感じます。
」97

 ※宿縁で結びつく人、動物、植物、自然に対して、
  その縁を大切なものとして、すくいとれるかどうか。
  たくさんのわが師に導かれることで、
  苦しみを減らしていく人生でありたい。



骨もて
 この城はつくられ
 血と肉もて 固められたり
 中には
 老いと死と
 いかりと傲慢(おごり)とが
 蔵(かく)されたり
』(一五〇)98

釈尊は、人体は
 『地・水・火・風・空の五大より成る五大成身』と考えます。
 『大』とは要素の意味です。
 地大は、髪・毛・爪・歯・骨。
 水大は、唾液・血液などです。
 火大は体温。
 風大は手足の動き。
 空大は、空間です。
」99

地・水・火・風・空の五大の特質はそれぞれ
 堅・湿・煖(熱)・動・無礙(障害のないこと)とされます。
」99

私たちの五体は、
 五大五輪が因縁法により出会って構成されているだけであるから、
 因縁が解けると、五大五輪も分散します。
 心もまた変わりつづけます。
 心身ともに無常です。
 この無常を苦とする感情、
 無常感が原因となって、
 人生を思い悩むのです。
」100

風化を悲しむ私たちもまた、
 無常の存在にほかなりません。
 この無常感が人生に苦を呼ぶ原因の一つに教えられるのです。
 さらに、このはかない自分の存在を忘れて、
 『いかりと傲慢』に身を焼き、
 さらに苦を深める
」101

 ※無常感は、家族から離れて、
  ひとりになるとわかります。
  これはつらい。

  家族との密接な関係はそれ自体、
  苦につらなる側面がありますが、
  いったん家族からまったく離れた生活を送ってみると、
  その孤独に、
  人はなかなか耐えられるものではありません。

2011年8月10日水曜日

スマイルズ『向上心』第4章



サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)著、竹内均 訳
『向上心(CHARACTER)』
(三笠書房、知的生きかた文庫、2011年6月改訂新版)より。

※「書物」讃歌の一章。

第4章 見識を高める

交際している友達を見ればその人がわかるというが、
 読んでいる書物からもその人の人格をうかがい知ることができる。
」134

※いつの間にか学校で、
 良書を読むことを薦められなくなったようです。

 良書の選定にイデオロギーがからんで、
 左翼色が強いものを無理やり薦められるよりは、
 何も言わないほうがよいのかもしれませんが、

 当たり障りのない、誰でもが知っていておくべき、
 古典的な名作は、小学校、中学校、高校にいる間に、
 半ば強制的にでも、目を通しておくような配慮は、
 できないものかな、と思います。


良書は最良の友である。」134

※はいそうです。


先人たちの純粋で正しい思想は、
 われわれが誘惑に負けそうになった時に、
 慈悲深い天使のように次にとるべき行動の芽を示して導いてくれる。
」136

※良書とは何か。


書物には永遠性があり、
 人間が骨を折って生み出したものの中では、
 何と言ってもいちばん息が長い。
 神殿はやがて崩れて廃墟と化し、
 絵画や彫刻は破損してしまうが、
 書物はそのままの形で生き残る。
」137

※書物があってこそ、子孫に伝えられるものがある。


楽しい時も悲しい時も、
 幸せな時も逆境にある時も、
 われわれが憩いと慰めと教えを求めてすがるのは常に書物であり、
 そこにちりばめられている偉人たちの魂である。
」139

※「書物」讃歌。徒然なるままに。


立派な人物の一生の記録は特に有益である。
 それはわれわれの魂に呼びかけ、希望を抱かせ、
 偉大な手本を示してくれる。
 崇高な精神に燃えて義務を果たし一生を終えた人たちの影響力は、
 永久に消えることがない。
」140

※よい伝記は強い影響力をもつ。


誰にでも、
 自分で苦々しく思っている欠点がある。
 自分の身体の中に獰猛な野獣が住んでいるのに気づかぬ人はいない。
 しかし、その野獣をどのようにしてて手なずけているかを
 正直に話してくれる人はほとんどいないのだ。

 (ヴォルテール)154

※伝記には欠点もある。


現実の社会では、
 自分の心の秘密、
 自分にしかわからぬ性格、
 そして何よりも自分の弱みや欠点を見せることは、
 たとえ相手が無二の親友であっても不可能にみえる。

 (フランスのモラリスト、シャンフォール)155


書物は若者の胸に灯をともし、
 情熱をかき立て、予想もしなかった方向に目を向けさせ、
 いつまでもその人格に影響を与える。
」158

※読書の長所。


すぐれた書物は立派な行為に似ているとも言えるだろう。
 それは人を浄化し高め励ましてくれる。
 心を自由に広げ、教養のない俗物主義から守ってくれる。
 良書は高尚な快活さと冷静な人格を生み、
 精神を正しく整え、
 暖かい人間味を人に与える。
」160

※「読書」讃歌。


死ぬ時には感覚的な喜びばかりではなく、
 学問・知識・賢く信心深い人たちとの会話といった、
 より人間らしい喜びや読書の楽しみ、
 話を聞く楽しみとも別れなければならない。
 私は書斎を去らねばならず、
 楽しみがいっぱい詰まった本のページを繰ることもできなくなる。

 (清教徒バクスター)161


書物は人類の知識の宝庫である。
 書物はあらゆる学問の分野における
 あらゆる営為・業績・思想の成功と失敗の記録である。
」161

※書物とは。


言葉は、永久にこの世に残る唯一の存在である。
 (ハズリット)163

※言葉を、書物を大切にしよう。

2011年8月5日金曜日

【読了】ドナルド・キーン『明治天皇(三)』



ドナルド・キーン著、角地幸男訳『明治天皇(三)』
(新潮文庫、平成19年3月。初出は平成13年10月)


『ローマ人の物語』に少し遅れて、読み終わりました。

第3巻では、
いよいよ日清戦争の話が出てきますが、
いたずらに戦争の話に紙面を費やすことはなく、
バランス感覚にすぐれた歴史の叙述になっていると思います。

筆致は覚めているけれども、
先へ先へと読み進められる面白さがあり、
時代背景の叙述にもきちんと配慮されておりますので、
大人向けの明治時代史としてお勧めです。


唯一気になったのは、
いわゆる旅順口事件について、
井上晴樹『旅順虐殺事件』(筑摩書房、平成7年12月)
を全面的に信用し、同書にもとづき記述されているところです。

同事件については、
『ニューヨーク・ワールド』紙のクリールマン記者による第一報が、
日本に対する悪意にみちた嘘宣伝であったことが明らかであり、

その後の記事も、この捏造記事に引きずられて、
事実が歪曲されて伝えられた可能性があるので、

史実の選定には細心の注意が必要です。
新聞にあるから、真実を伝えているとは言えません。

その点、
もう少し深い史料の読みを期待したかったのですが、
史実の判断が少し軽率に感じました。

とはいえ、井上さんの著作に対して
本格的な批判が出されているわけでもないので、
キーンさんの立場からすれば、
まずは穏当な判断といえるのかもしれません。

旅順口事件については、
「南京事件」と同レベルの批判的な研究はなされていないようなので、
もう少し原史料にさかのぼって、検討したいと思います。

井上さんの著作をまだ拝見していないので、
こちらも近々手に入れて、読んでみたいと思っております。