2013年5月1日水曜日
【Note】森信三著 『修身教授録』 その1
森信三著
『修身教授録―現代に甦る人間学の要諦』
(致知出版社、平成元年3月)
※「本書は、大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)本科での森信三先生の講義をまとめた『修身教授録』(全五巻、昭和14年刊)の中から、昭和12年3月~昭和14年3月までの二年間の講義を改めて編集したもの」だそうです。(巻末解題より)
私なりに本書との対話を進めていきたいと思います。
第1講「学年始めの挨拶」を読み終わっての感想です。
▽
「われわれはここに、
縁あってこれから一年間を共に学ぶことになったわけですが、
これはもちろん諸君らの希望によることでもなければ、
また私の方から申し出たことでもなく、
すべては学校という一つの大きな組織の上から決まった事柄であります。」12頁
※そう言われてしまうと身も蓋もないのですが、
確かに、人生における出会いとは、
偶然によるところがほとんどすべてであって、
自らの希望にしたがって、
自分で理想とする先生、生徒、上司、部下、先輩、後輩、友人、恋人が、
人生の要所要所で必ず現れて来る、わけでないことは、
早めに知っておくべきかもしれません。
親兄弟、祖父母を選べないのに比べれば、
ある程度、選択の余地が残されていることも事実ですが、
人生における出会いの大部分は、
自らが事前に抱く理想とは何ら関係なく、
偶然の縁によって結びつけられるものだ、と。
▽
「われわれ人間というものは、
すべて自分に対して必然的に与えられた事柄については、
そこに好悪の感情を交えないで、
素直にこれを受け入れるところに、
心の根本態度が確立すると思うのであります。
否、われわれは、
かく自己に対して必然的に与えられた事柄については、
ひとり好悪の感情をもって対しないのみか、
さらに一歩をすすめて、
これを「天命]として謹んでお受けするということが大切だと思うのです。
同時に、かくして初めてわれわれは、
真に絶対的態度に立つことができると思うのです。」12・13頁
※若いうちに、
親もとにで育まれた「理想」が、
社会に出てそのまま通用することは稀でしょう。
理想と現実のはざまで
苦しみ、思い悩むのは
若さゆえの特権ともいえますが、
どこかで自らの現実と向き合って、その中で、
自ら生きていく術を見出していかなければならないのも、
確かなことだと思います。
これから社会に出ていく学生に対して、
理想だけで世の中は回っていないこと、
目の前には、
そのまま肯定的に受け入れるほかない
現実が横たわっていることを、
記憶のかたすみに焼きつけておくことは、
とても大切なことだと思いました。
社会に出る前の
大人としての心構えを学ぶのが、
「修身」なのだと思います。
▽
「大よそわが身に降りかかる事柄は、
すべてこれを天の命として慎んでお受けするということが、
われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。
ですからこの根本の一点に心の腰のすわらない間は、
人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。
したがってここにわれわれの修養の根本目標があると共に、
また真の人間生活は、
ここからして出発すると考えているのです。」13頁
※ありのままの現実を、
肯定的に受け入れるところから、
大人としての第一歩がはじまるのだ、
とは、
大人になってみれば自明なことでしょう。
現実から目をそらしてみた夢は、
砂上の楼閣のようなところがあって、
現実に自分が置かれている立場を、
冷静に受け入れるところから導かれる目標とは、
自ずから違ったものになることは当然でしょう。
でもしかし、
若さゆえに広い視野を持てず、
がむしゃらに理想に向かって突き進むのは、
ある面、当然のことでもあるわけで、
あまり若いうちから悟りきって、
目の前の現実と妥協し続けているのはどうかと思います。
「修身」を学ぶには、
時期が大切ということでしょうか。
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