2011年5月5日木曜日

松原泰道『法句経入門』1章 苦諦(後半)



松原泰道(まつばらたいどう)著
『釈尊のことば 法句経入門』
(祥伝社新書、2010年3月。初出は1974年)より。
※印は栗木によるコメントです。

「さきに学習した『生・老・病・死』は、
 人間が時間的存在として生きるかぎり、
 いつかは出会わなければならぬ厳粛な事実です。
 しかも、その時期の予測もできず、
 自分の思いどおりにならない不安と焦燥が、
 私たちの心身をかき乱します。」50

※前半であげた四つの苦、
 「生・老・病・死」にともなう苦は、
 時間的存在として人間をとらえたときに、
 必然的に出会わざるをえない事実である、

 と述べています。

 確かに、これはよくわかる解釈です。
 我々は、生まれて、老いて、病を患い、死を迎える存在であり、
 そこに必然的に、避けがたい苦があります。


「また人間は、
 時間的存在であるとともに、
 空間的に生きる存在です。
 空間においても、
 人と物、人と人とのかかわりあいが、
 さらに四つのパターンになって私たちと対決します。」50

※後半では、
 人間が空間的存在であることから、
 必然的に見出される四つの苦について説明します。
 それは
  ①愛別離苦
  ②怨憎会苦
  ③求不得苦
  ④五盛蘊苦
 の四つの苦です。

 苦についての分類は、
 おそらくこの八つの分類で、
 ほとんど尽きているのではないでしょうか。
 少なくとも今の私には、
 これ以上のことは思い当たりませんし、
 また無理やり細分したところで、
 あまり意味が無いように思われます。


〈八苦⑤〉愛する者に別れる苦しみ-愛別離苦(あいべつりく)
愛するものに
 近づくなかれ
 愛せざるものにも
 近づくなかれ
 愛するものを
 見ざるは苦なり
 愛せざるものを
 見るもまた苦なり
〔二一〇〕」49

「第一のパターンが、
『人と人とのかかわりあい』で、
 いわば対人関係から生ずる問題です。
 その一つが愛するものに別れる苦痛です。
 肉親や恋人との死別や生別から受ける心身の痛手は、
 今も昔も変わりはありません。
 この愛するものに別れる苦痛を『愛別離苦』と名づけます。」50

『逢うときは別れ路もありおなじくは身に添う影となる友もがな』54
 (白隠『藻塩集』)

「人は、一人で生きられないのに、
 他とのかかわりあいで、
 かならず愛と欲の渦巻きで苦しまずには生きられないのです。」54

※愛する者に受け入れられない苦しみ、
 愛する者と別れる苦しみ。
 愛情にフタをすれば、この苦しみはなくなるわけですが、
 愛すること、愛されることは、生きていることのあかしですから、
 この苦しみは苦しみとして、受け止めるしかないものでしょう。


知恵の眼のくもれる人は
 愛欲にふけり
 争いを好む
 知恵の眼の澄(す)める人は
 励みと慎(つつし)みとを
 宝のごとく守るなり
〔二六〕」55

愛より
 うれいとおそれを生ぜん
 愛より
 全(まった)き自由を得たる人に
 憂(うれ)いも恐れもなし
〔二一二〕」56

欲楽(よくらく)より
 うれいとおそれを生ぜん
 欲楽をこえし人に
 憂(うれ)いも恐れもなし
〔二一四〕」59

※愛と欲とが、
 苦痛の源となることは、
 確かに少し年を重ねてくると、
 よくわかるようになって来ました。

 でもしかし、
 だからといって、
 愛と欲とを切り離して
 生きていくわけにもいかないのが人間です。

 そこから
 逃げるわけにはいかないことを理解した上で、
 いろいろと失敗をくりかえしながら、
 自分なりに節度を保って生きていくしかないのでしょう。


〈八苦⑥〉憎しみあいつつ生きる苦しみ-怨憎会苦(おんぞうえく)
むさぼるなかれ
 争いを好むなかれ
 愛欲に溺(おぼ)るるなかれ
 よく黙想し
 放逸(ほういつ)ならざれば
 必ず
 心の安らぎを得ん
〔二七〕」62

「私たちは、
 別れたくもない愛するものと、別れねばならぬ『愛別離苦』を味わう反面、
 別れたくても別れられず、憎しみ怨(うら)みあいつつ、
 生をともにしなければならぬときもあるのです。
 すなわち、対人関係の第二の苦のパターン『怨憎会苦(おんぞうえく)』です。」

※嫌いな人と一緒にいる苦しみ。
 学校とか、会社とかなら、少し無理をすれば、別れることもできるでしょう。
 ご近所さん、親戚づきあいも、それなりに距離をおくことも可能でしょう。
 しかし同じ家族のなかで、
 お互いにマイナスの関係になった場合は、
 なかなか解決するのは難しい。
 あまり無いことかもしれませんが、
 家族同士が憎しみあうことも、時には起こりうるのであり、
 そうした場合の苦しみは、
 また解決の難しい、ただ受け入れて
 耐える他のない苦しみとなるでしょう。


〈八苦⑦〉求めても求めても得られない苦しみ-求不得苦(ぐふとつく)
天(てん)、宝の雨を降らすとも
 人の欲は果てじ
 ”少欲(しょうよく)を味わうも苦なり”と
 賢(かしこ)き人は知るなり
〔一八六〕」67

「第三のパターンは、
 物・心ともに『欲求のままに適(かな)えられない』苦悩と焦燥で
 『求むれど得られざる苦(求不得苦)』と呼びます。」68

※人の欲に果てしがないことは、
 わが身を省みても、
 うなずくことができます。

 果てのない欲に
 ほどほどのセーブをかけられるようになると、
 人生わりと楽しくなって来ます。

快楽に眼(まなこ)くらみ
 官能をととのえず
 縦(ほしいまま)に生をむさぼる人は
 心弱く励み少なし
 魔に魅せられて
 風にそよぐ草のごとく
 安らぐときなし
〔七〕」72

※若いうちに、
 果てのない自分の欲の浅ましさに
 気がつく機会をもてると、

 年をとってから、
 ふとした瞬間に欲望にのめりこんで、
 身を滅ぼすこともなくなるように思います。

 はじめから、
 何も経験しないうちから、
 ただただ欲望を断つ気でいると、
 どこかでおさえが効かなくなる瞬間が
 やって来るかもしれません。


〈八苦⑧〉すべての「存在」に執着する苦しみ-五盛蘊苦(ごじょううんく)
眠れぬときは
 夏の夜も長し
 疲れしものには
 一里の道も遙(はる)けし
 法(おしえ)を求めぬものには
 会い難(がた)き 人の世も
 空しからん
〔六〇〕」76

「人と物(人)に対して生ずる苦の第四のパターンが『五盛蘊苦』です。
 この苦は、今まで学習した生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦
 の七苦の根源でもあり、また総括です。」77

※総括として、
 人とのすべての関わりにおいて、
 苦は生み出されるのだ、
 といわれれば、
 ああそうだな、としみじみ感じられます。

 でもその理解の深さは、
 人それぞれに生きてきた道筋によって、
 徐々に深まっていくものなんだと思います。

 私もたぶん十年先に読み返すと、
 同じことでもより新鮮な発見があるのだと思います。


「『五蘊』とは色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)のこと」77

「私たちが、実在だと考えている存在なるものは、
 すべて五つの要素(色・受・想・行・識)が集まった結果の
 物質的現象(空的存在)です。
 この『物質的現象』であり、『空的存在』に向かい、
 自我(エゴ)的な執着が働きかけると、
 存在はすべて苦となって、
 自分に跳ねかえってくる
 -とするのが『五盛蘊苦』です。」77

“われに子あり 財(たから)あり”と
 こころくらきものは 奢(おご)るなり
 奢ることをやめよ
 われ すでに
 われにあらず
 いずくに
 子と財とあらん
〔六二〕」81

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