2011年5月24日火曜日

【読了】吉川英治『宮本武蔵(一)』

『三国志』を読み終えて、
次はどの吉川作品に挑戦しようかなと、いくつか手を取ったなかで、
強く惹き込まれたのが『宮本武蔵』でした。

吉川英治『宮本武蔵(一)』
(講談社、吉川英治歴史時代文庫14、平成元年11月)


剣の道に特別な関心があるわけではなかったので、
はじめは『新書太閤記』あたりを、と思っていたのですが、
はじめの数ページ立ち読みしたら、そのまま止まらなくなりました。

これは宮本武蔵に仮託して、
人間はいかに生きるべきか、を説いた、
吉川氏の人生論のようです。

『三国志』のときもその筆力に感心したのですが、
『宮本武蔵』はストーリーが複雑なわけではないので、
吉川さんの筆の冴えがよくわかります。

こんな日本語はめったに書けないなあ、
としきりに感心しました。

では第二巻に進みます。

2011年5月19日木曜日

【読了】塩野七生『ローマ人の物語 3 ハンニバル戦記 上』

読み終えました。


塩野七生
『ローマ人の物語3 ハンニバル戦記〔上〕』
(新潮文庫、平成14年7月。初出は平成5年8月)


いきなり第3巻から、というわけではありません。


昨年末から新年にかけて、

『ローマ人の物語1・2 ローマは一日にして成らず〔上・下〕』
(新潮文庫、平成14年6月。初出は平成4年7月)

は読み終えていました。

その後すぐに、第3巻も読みはじめたのですが、
同じ時期に『三国志』にはまって中断していました。

改めて第3巻から読み直してみると、
淡々とした記述の中に、独特の味わいがあって、
けっこう惹きこまれます。

何かしら誇張したことが書かれているわけではないのに、
歴史の流れをひとつひとつ追っていくことが、
それなりに面白く感じる、

昔はそんなことなかったはずなので、
年をとったということでしょう。

「ハンニバル戦記」は(上・中・下)の
3分冊になっているので、お盆前をめどに、
読み終えたいなあ、と思っています。

では第4巻へ。

2011年5月12日木曜日

マザー・テレサ『日々のことば』7月より

ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』
(女子パウロ会、2009年11月。初出は2000年6月)より。
※印は栗木によるコメントです。

◆7月10日
まず、あなたの街の、
 そして、あなたの家の中の、
 心さびしい人を見つけてください。

 何よりもあなたの周りの人たちにとって、
 福音となってください。

 わたしたちは往々にして、
 外ではいつもほほえんでいるのに、
 家に帰ってくると、
 とたんに、ほほえむ時間すらなくなってしまうのです。
」218

※まずは身内から。

 これは案外、
 忘れてしまいがちなことではないでしょうか。

 外では気をはって、
 良い人を演じて疲れてしまい、
 家に帰って当たり散らすことは、
 ありがちなことです。

 まず自分の家族から、
 という考え方は、やはり大切だと思います。

 何があっても、
 家族は必ず自分の味方であってくれる、
 という関係が作れると、
 心がとても安定して、
 人は強くなれます。

 ボランティアという考え方は
 大切なものだと思いますが、
 まず自分の家族を固めて、
 そこから少しずつ、
 外に向けて、視野を広げていく、
 という順番が、
 一番大切だと思います。 


◆7月12日
喜びは祈り、
 喜びは力、
 喜びは愛、
 喜びは、人の魂を受け止めることのできる愛の網。

 喜んで与える人は、もっとも多く与える人です。
 神と人々に、あなたの感謝の心を表すいちばんよい方法は、
 どんなことでも喜んで受け入れることです。
」220

※人さまに対して、
 良い影響を与えられるように生きる。

 ただそれは、
 自分の不幸と引き換えにして、
 相手に幸福になってもらう、というよりは、

 私の心を、
 つねに喜びで満たしておくことによって、
 相手の心にも
 喜びの波を自然に起こしてあげることができたら、
 お互いにとって、
 とても幸せなことだと思います。


◆7月14日
いったんお金に執着すると、
 そのお金が与えてくれる、いろいろな余分なものへの
 執着も起こります。
 わたしたちの必要は増えていき、
 ひとつのことから、また別のことへと、
 限りない不満に陥ってしまうのです。

 お金持ちであることは、悪いことではありません。
 お金が強い欲望を起こさせるとき、
 お金は罪となるのです。
 豊かさは神から与えられたものです。
 ですから、恵まれない人たちと分ち合うのは、
 わたしたちの務めです。
」222

※お金は大切です。
 お金を稼ぐことによって、
 われわれは日常の生活を成り立たせることができます。

 ただし人間の欲は、
 限りのないものなので、
 お金が利己的な強い欲望と結びつくと、
 お金が毒になることもある、
 と心得ておきたい。

 自らの生活をまず優先させるのは
 間違いではないと思いますが、

 生活の基盤が十分に整った先、
 もしお金がたくさん貯まったら、

 世の中の役に立つように、
 どんなことに使おうか、
 と考えておくのも楽しいかもしれません。


◆7月20日
祈ることを愛しましょう。
 日中たびたび祈りの必要を感じ、祈るよう努めましょう。
 神は、いつもわたしたちに話しかけておられます。

 神に耳を傾けましょう。
 神は、わたしたちに、
 深い愛と思いやりとゆるしの心を望んでおられます。
」228

※祈ることは、
 日ごろの生活の中に取り入れられると、
 強いです。

 日本では、
 祈ることは、若干いかがわしいような印象があって、
 誰もが祈るような環境にはないのではないでしょうか。

 私も祈ることとは距離のある生活をして来ましたが、
 母の死とともに、家の宗教(浄土宗)を見つめ直し、
 日々仏壇で手を合わせる生活をはじめてから、
 祈ることの大切さを見つめ直すようになりました。

 とくに何かを言語化することもなく、
 ただ心静かに祈るだけですが、

 それはご先祖さまの霊に感謝を捧げるとともに、
 自分自身の今の心を見つめ直す機会にもなります。

 驕り高ぶりがちな私の心を静めてくれます。

 また、祈ることを日常に取り入れていると、
 何かあって忙しく、それを忘れる日々が重なったときにも、

 ああ、これではいけないな、
 と思い直すきっかけを作ってくれます。

 何教徒であっても、
 また特定の所属する宗教をもたない場合でも、
 日々の祈りは、大切だと思います。


◆7月28日
うぬぼれたり、人に厳しかったり、
 わがままでいることは、とても簡単なことです。
 けれども、わたしたちは、
 もっとすばらしいことのために創られています。
 わたしたちはそれぞれに、
 たくさんのいいところも、
 同様に、悪いところも持っています。

 一人ひとりの成功を、ほめ称(たた)えるのはやめましょう。
 その称賛は、すべて神に帰すべきです。
」236

※うぬぼれること、
 人に厳しくあること、
 わがままでいることは、簡単だ。

 そう言われると、はっと気がつきます。

 よく生きるために、
 自分は生まれて来たのだ、
 と信じて生きる。

 生き方によって、
 どのようにでも生きられるのであれば、
 私はよく生きる方を選びたい。

 そのためにどうするか。
 何か難しい、新しいことを始めようとするのではなく、
 ありのままの私を受け入れるところか、
 すべては始まります。

2011年5月5日木曜日

松原泰道『法句経入門』1章 苦諦(後半)



松原泰道(まつばらたいどう)著
『釈尊のことば 法句経入門』
(祥伝社新書、2010年3月。初出は1974年)より。
※印は栗木によるコメントです。

「さきに学習した『生・老・病・死』は、
 人間が時間的存在として生きるかぎり、
 いつかは出会わなければならぬ厳粛な事実です。
 しかも、その時期の予測もできず、
 自分の思いどおりにならない不安と焦燥が、
 私たちの心身をかき乱します。」50

※前半であげた四つの苦、
 「生・老・病・死」にともなう苦は、
 時間的存在として人間をとらえたときに、
 必然的に出会わざるをえない事実である、

 と述べています。

 確かに、これはよくわかる解釈です。
 我々は、生まれて、老いて、病を患い、死を迎える存在であり、
 そこに必然的に、避けがたい苦があります。


「また人間は、
 時間的存在であるとともに、
 空間的に生きる存在です。
 空間においても、
 人と物、人と人とのかかわりあいが、
 さらに四つのパターンになって私たちと対決します。」50

※後半では、
 人間が空間的存在であることから、
 必然的に見出される四つの苦について説明します。
 それは
  ①愛別離苦
  ②怨憎会苦
  ③求不得苦
  ④五盛蘊苦
 の四つの苦です。

 苦についての分類は、
 おそらくこの八つの分類で、
 ほとんど尽きているのではないでしょうか。
 少なくとも今の私には、
 これ以上のことは思い当たりませんし、
 また無理やり細分したところで、
 あまり意味が無いように思われます。


〈八苦⑤〉愛する者に別れる苦しみ-愛別離苦(あいべつりく)
愛するものに
 近づくなかれ
 愛せざるものにも
 近づくなかれ
 愛するものを
 見ざるは苦なり
 愛せざるものを
 見るもまた苦なり
〔二一〇〕」49

「第一のパターンが、
『人と人とのかかわりあい』で、
 いわば対人関係から生ずる問題です。
 その一つが愛するものに別れる苦痛です。
 肉親や恋人との死別や生別から受ける心身の痛手は、
 今も昔も変わりはありません。
 この愛するものに別れる苦痛を『愛別離苦』と名づけます。」50

『逢うときは別れ路もありおなじくは身に添う影となる友もがな』54
 (白隠『藻塩集』)

「人は、一人で生きられないのに、
 他とのかかわりあいで、
 かならず愛と欲の渦巻きで苦しまずには生きられないのです。」54

※愛する者に受け入れられない苦しみ、
 愛する者と別れる苦しみ。
 愛情にフタをすれば、この苦しみはなくなるわけですが、
 愛すること、愛されることは、生きていることのあかしですから、
 この苦しみは苦しみとして、受け止めるしかないものでしょう。


知恵の眼のくもれる人は
 愛欲にふけり
 争いを好む
 知恵の眼の澄(す)める人は
 励みと慎(つつし)みとを
 宝のごとく守るなり
〔二六〕」55

愛より
 うれいとおそれを生ぜん
 愛より
 全(まった)き自由を得たる人に
 憂(うれ)いも恐れもなし
〔二一二〕」56

欲楽(よくらく)より
 うれいとおそれを生ぜん
 欲楽をこえし人に
 憂(うれ)いも恐れもなし
〔二一四〕」59

※愛と欲とが、
 苦痛の源となることは、
 確かに少し年を重ねてくると、
 よくわかるようになって来ました。

 でもしかし、
 だからといって、
 愛と欲とを切り離して
 生きていくわけにもいかないのが人間です。

 そこから
 逃げるわけにはいかないことを理解した上で、
 いろいろと失敗をくりかえしながら、
 自分なりに節度を保って生きていくしかないのでしょう。


〈八苦⑥〉憎しみあいつつ生きる苦しみ-怨憎会苦(おんぞうえく)
むさぼるなかれ
 争いを好むなかれ
 愛欲に溺(おぼ)るるなかれ
 よく黙想し
 放逸(ほういつ)ならざれば
 必ず
 心の安らぎを得ん
〔二七〕」62

「私たちは、
 別れたくもない愛するものと、別れねばならぬ『愛別離苦』を味わう反面、
 別れたくても別れられず、憎しみ怨(うら)みあいつつ、
 生をともにしなければならぬときもあるのです。
 すなわち、対人関係の第二の苦のパターン『怨憎会苦(おんぞうえく)』です。」

※嫌いな人と一緒にいる苦しみ。
 学校とか、会社とかなら、少し無理をすれば、別れることもできるでしょう。
 ご近所さん、親戚づきあいも、それなりに距離をおくことも可能でしょう。
 しかし同じ家族のなかで、
 お互いにマイナスの関係になった場合は、
 なかなか解決するのは難しい。
 あまり無いことかもしれませんが、
 家族同士が憎しみあうことも、時には起こりうるのであり、
 そうした場合の苦しみは、
 また解決の難しい、ただ受け入れて
 耐える他のない苦しみとなるでしょう。


〈八苦⑦〉求めても求めても得られない苦しみ-求不得苦(ぐふとつく)
天(てん)、宝の雨を降らすとも
 人の欲は果てじ
 ”少欲(しょうよく)を味わうも苦なり”と
 賢(かしこ)き人は知るなり
〔一八六〕」67

「第三のパターンは、
 物・心ともに『欲求のままに適(かな)えられない』苦悩と焦燥で
 『求むれど得られざる苦(求不得苦)』と呼びます。」68

※人の欲に果てしがないことは、
 わが身を省みても、
 うなずくことができます。

 果てのない欲に
 ほどほどのセーブをかけられるようになると、
 人生わりと楽しくなって来ます。

快楽に眼(まなこ)くらみ
 官能をととのえず
 縦(ほしいまま)に生をむさぼる人は
 心弱く励み少なし
 魔に魅せられて
 風にそよぐ草のごとく
 安らぐときなし
〔七〕」72

※若いうちに、
 果てのない自分の欲の浅ましさに
 気がつく機会をもてると、

 年をとってから、
 ふとした瞬間に欲望にのめりこんで、
 身を滅ぼすこともなくなるように思います。

 はじめから、
 何も経験しないうちから、
 ただただ欲望を断つ気でいると、
 どこかでおさえが効かなくなる瞬間が
 やって来るかもしれません。


〈八苦⑧〉すべての「存在」に執着する苦しみ-五盛蘊苦(ごじょううんく)
眠れぬときは
 夏の夜も長し
 疲れしものには
 一里の道も遙(はる)けし
 法(おしえ)を求めぬものには
 会い難(がた)き 人の世も
 空しからん
〔六〇〕」76

「人と物(人)に対して生ずる苦の第四のパターンが『五盛蘊苦』です。
 この苦は、今まで学習した生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦
 の七苦の根源でもあり、また総括です。」77

※総括として、
 人とのすべての関わりにおいて、
 苦は生み出されるのだ、
 といわれれば、
 ああそうだな、としみじみ感じられます。

 でもその理解の深さは、
 人それぞれに生きてきた道筋によって、
 徐々に深まっていくものなんだと思います。

 私もたぶん十年先に読み返すと、
 同じことでもより新鮮な発見があるのだと思います。


「『五蘊』とは色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)のこと」77

「私たちが、実在だと考えている存在なるものは、
 すべて五つの要素(色・受・想・行・識)が集まった結果の
 物質的現象(空的存在)です。
 この『物質的現象』であり、『空的存在』に向かい、
 自我(エゴ)的な執着が働きかけると、
 存在はすべて苦となって、
 自分に跳ねかえってくる
 -とするのが『五盛蘊苦』です。」77

“われに子あり 財(たから)あり”と
 こころくらきものは 奢(おご)るなり
 奢ることをやめよ
 われ すでに
 われにあらず
 いずくに
 子と財とあらん
〔六二〕」81

【読了】ドナルド・キーン 『明治天皇(一)』



ドナルド・キーン著、角地幸男訳『明治天皇(一)』
(新潮文庫、平成19年3月。初出は平成13年10月)


4月に入ってから、ふと手にとって以来、
『三国志』とあわせて読み進めています。

もとは上下巻の2分冊でしたが、
文庫版になるときに、4分冊されています。


さらさらと読み飛ばすような本ではありませんが、

日本人にとって自ずから興味のひかれる話が、
落ちついた筆致で、一つ一つ順を追って展開されていきます。

時代背景も的確に描かれており、
イデオロギー的な偏見もみられないので、

大人の読む明治時代史としてもお薦めできる内容だと思います。


生涯を日本文学の研究に捧げ、
近年、日本国籍を取得し、日本に永住する意志さえ表明されている
ドナルド・キーン氏の存在は、
日本人として、大変ありがたいことだと思います。

では2巻に入ります。

2011年5月4日水曜日

【読了】吉川英治『三国志』全八冊

吉川英治『三国志(一)~(八)』
(講談社、吉川英治歴史時代文庫33~40、1989年4月~1989年5月)

確か昨年末から読みはじめ、
4ヶ月かけてようやく読了しました。

特に飽くこともなく、
2週間1冊のペースで
読み進めることができました。

噂に違わず、
さまざまな個性をもった人間の型の宝庫で、

これを小中学生のときに、
夢中で読む機会があったなら、

人と人との織り成す世間の複雑さについて、
もう少し色んな知恵を身につけておけたのに、

と感じました。

吉川氏の達意の文章にも感謝。

私の中の古典として、今後もまた、
読み返していきたいと思います。


一つ難点。
ルビが少なく、恐らく小中学生では、
なかなか読み進められないのではないか、
と思いました。

内容的には、
小中学生のときに接しておきたい作品だと思うので、
総ルビに近いかたちで提供されていたなら、
と思います。


次はまた、
横山光輝氏の漫画版に戻ってみましょうか。

2011年5月1日日曜日

松原泰道『法句経入門』1章 苦諦(前半)



松原泰道(まつばらたいどう)著
『釈尊のことば 法句経入門』

(祥伝社新書、2010年3月。初出は1974年)より。
※印は栗木による。

※なぜ仏教かといえば、
 私にとって一番近くにある宗教が、仏教(浄土宗)であるにもかかわらず、
 仏教と向き合う機会がほとんどないまま今に至っているので、
 その中身をよく知りたい、と思ったのがきっかけです。

 日本人にとっての仏教、
 私にとっての仏教とは何なのか、を考える場合、
 松原泰道氏の一連の著作は外せないように思われました。

 松原氏は臨済宗の方なので、
 その点は考慮しつつ、
 現代の日本人にとって分かりやすい言葉で、
 仏教をどう理解したのか、真剣に受け止めてみたいと思っています。


「『法句経』とは、
 パーリ語のダンマパダ(Dhammapada)を漢訳した経典の名で、
 “真理のことば(法句)”の意味です。

 パーリ語は、
 釈尊が平素用いた古代インドの俗語の一つで、
 釈尊の晩年には聖典要語となりました。
 (中略)

 釈尊が、
 このパーリ語で語った四二三編の詩句を、
 ダルマトゥラタ(二世紀におけるインドの仏教学者)が選集したのが、
 いま読まれている法句経とされています。」3


一章 苦諦(くたい)-人生を苦しくする八つの原因

『すべては無常なり』と
 知恵にて観(み)る人は
 よく苦をさとるべし
 これ 安らぎにいたる道なり
〔二七七〕」20

『すべてのものは苦なり』と
 よく知恵にて観(み)る人は
 この苦をさとるべし
 これ 安らぎにいたる道なり
〔二七八〕」20

※苦しさ、というものから、
 人はのがれることができません。

 その現実を、ありのままに受け入れ、
 どんなときに苦しさを感じるのか、

 苦しさのもとになるものを、
 少し突きはなしたところから、
 考えなおしてみることが、

 苦しさが少なく、安らぎの多い
 豊かな心を手に入れる方法だということなのでしょうか。

 四十が近づいて来て、何となくわかるようになって来ました。


〈八苦①〉生まれ、生きることの苦しみ-生苦(しょうく)
人に生まるるは難(かた)し
 いま 生命(いのち)あるは難し
 世に ほとけあるは難し
 ほとけの法(おしえ)を聞くは難し
〔二八二〕」26

※生まれることが、
 苦しみにつながることもあります。
 願望からいえば、
 生まれることは大きな喜びに包まれていてほしいのですが、
 現実を直視すれば、生まれることが、
 時に大きな苦しみに結びつくこともあります。
 でもしかし、だからどうするのか。
 救いがあれば幸いですが、
 救いがないこともあります。

※ヘレン・ケラー女史の
 「子は生まれてくるとき、親を選べない」
 という言葉を受けて、
 「親も子を選ぶ自由がない」
 と述べられているところは考えさせられました(32頁)。


〈八苦②〉老いることの苦悩-老苦(ろうく)
たとい 百歳の寿(いのち)を得るも
 無上の法(おしえ)に 会うことなくば
 この法(おしえ)に会いし人の
 一日の生(しょう)にも 及ばず
〔一一五〕」34

※年をとる苦悩。
 ありがたいことに、
 まだそれほど切実ではありません。
 しかし、どんなものかは、
 何となくわかるようになって来ました。

 頭をつかうことが好きで、
 頭をつかう仕事をしているからでしょうか、
 肉体の衰えは徐々に感じはじめていますが、
 頭はまだまだ大丈夫です。

 頭をつかう部分で、
 明らかな衰えが自覚できるようになって来ると、
 それはかなりの苦痛になるでしょう。


〈八苦③〉病(やまい)にふせることの苦しみ-病苦
この世はつねに
 燃えさかるを
 何の笑い 何のよろこびぞ
 おん身は
 いま幽冥(やみ)につつまれたるに
 何ぞ光を求めざる
〔一四六〕」39

「病気の持つ三功徳
 一、生命力の自覚、
   病気の抵抗力としての健康性や、
   精神の抵抗力が自覚できる。
 二、自然と人生に対する繊細な感情が磨かれる。
   心を柔軟にする訓練の絶好機で、
   もののあわれを知ることができる。
 三、何ものかに祈ろう、
 と思い立つ心が生じる。」40
 (評論家の故亀井勝一郎氏)

※病院にかかりきりで、
 まともに勉強できなかったり、
 仕事できなかったりしたことはないので、
 その点はありがたいのですが、

 あちこちところどころガタが来て、
 少しずつメンテナンスをする必要はでてきました。

 ただ全体としてみれば、
 病の苦しみについて迫真をもって語るには、
 まだまだ元気だと思います。

 元気に産んでくれた
 両親に感謝します。


〈八苦④〉死の恐怖と苦しみ-死苦(しく)
子たりとも
 父たりとも
 縁者たりとも
 死に迫られしわれを
 すくうこと
 能(あた)わず
〔二八八〕」44

『生(しょう)を明(あき)らめ、
 死を明らむるは、
 仏家一大事の因縁なり』44
 (道元禅師)

※この平和に時代に生を得て、
 死への恐怖も、
 それほど切実なものではありません。
 御先祖様に感謝です。

 恐らくもう少し年をとって、
 死の足音が近づいてくると、
 切実になって来るのだと思います。

 年老いて死ぬ以外では、
 あまり死への恐怖を感じなくて住むのは、
 たいへんありがたいことです。
 感謝、感謝。