謙虚であることを忘れないように、
日々生きていきたいものです。
ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』
(女子パウロ会、2009年11月。初出は2000年6月)より。
※印は栗木によるコメントです。
◆5月1日
「お互いに、心の底から愛し合っている人たちは、
この世でいちばん幸せ者です。
彼らは少ししか、いいえ、まったく何も持っていないかもしれません。
でも幸せなのです。
すべてのことは、
どのように愛し合うかにかかっているのです。」142
※心の底から愛し合える人がいれば、
確かに、ほかに何もいらない。
自分の命も含めて、すべて、すてても構わない、
そう思える相手に出会えるのは、
奇跡的なことだと思います。
だからこそ、もしそういった奇跡に出会えたのなら、
その機会を大切にしていかなければならないと思います。
お金が得られることは幸せですし、
自分に合った仕事が見つかることも幸せですし、
ふさわしい地位や名誉を得られることも幸せです。
でもその幸せは、
心から愛し合える人に出会えた幸せとは、
比べられないくらい小さなものになると思います。
◆5月12日
「わたしは罪深い人間です、と自分では言うけれど、
だれか他の人にそう言われると、憤慨するでしょう。
もし、いわれのないことで非難されたら、
苦しむかもしれませんが、
どんな小さなことでも、
事実に基づいて罰されると、それが当然である場合、
わたしはもっと傷つくでしょう。
自分の欠点が人々に知られることを、
喜んで受け入れなくてはなりません。」153
※自分が不完全な、
欠点だらけの人間であると、
本当にわかっているのか。
他人に、自分の欠点を指摘されて、
腹がたつうちはまだまだ。
若いうちは、
言葉として知っているつもりでも、
実際にはわかっていなかったと思います。
最近はどうでしょうか。
自分の限界は見えてきて、
自分の不完全さはわかってきて、
だいぶ丸くなってきたとは思いますが、
きっとまだまだでしょう。
◆5月13日
「富は、精神的なものであれ、物的なものであれ、
正しく用いられないなら、
息苦しさを与えます。」154
※正しく用いられるなら、
富が心への安らぎを与えることを信じます。
冨それ自体を否定することは、
一生懸命働くことを否定することにもつながるので、
それは違うと思います。
◆5月20日
「人に、優しい愛と思いやりを注ぎましょう。
あなたの惜しみない心遣いと、
あなたのあふれる喜びは、
大きな希望を与えることでしょう。」161
※教師としての心がまえは、
常にこうありたいと思います。
生徒の欠点に気がつくことは大切ですが、
その欠点をしつこく指摘して、修正しようとしても、
まずうまく行かないものです。
まず自分が勉強を楽しみたい。
わたしが楽しくないものを、
人に教えたなら嘘になります。
幸い勉強は、昔から大好きです。
学校の勉強とは、相性がわるいこともありましたが、
勉強自体は、嫌いになったことがありません。
そんな私です。
◆5月21日
「聖くなりますように。
わたしたちはだれでも、
聖くなる可能性を秘めているのです。
そして聖くなるための道は、祈りです。」162
※祈りは、とても大切です。
諦めではなく、祈りを。
これも若いころは気がつきませんでしたが、
地元に帰ってきて、
日々ご先祖さまに手を合わせるようになって、
その大切さに改めて気がつくようになりました。
なにか、具体的な事柄を祈るわけではないのです。
ただただ手を合わせて、静かに祈るのです。
◆5月31日
「あなたの目を、あなた自身に向けることをやめ、
あなたが何も持っていないこと、
ましてや何ものでもないこと、
何もできないことを喜びなさい。
あなたの無があなたを脅かすときはいつでも、
イエスさまに向かって大きくほほえみなさい。
ただイエスさまの喜びだけを持ち続けるように。
それがあなたの力ですから。
いつも喜んで、
平和のうちに、
神が何をあなたから取り去られても、
ほほえみをもって、それを受け入れなさい。」172
※自分のため、
ではない人生にこそ、
ほんとうの生きがいがある。
よく考えてみれば、
当然のことなのですが、
一人でいると、忘れがちな心の持ち方です。
自分のために生きなさい、
といわれて育ってきた記憶が多くあるので、
人のために生きるのがほんとうだ、
といわれると、ああそうか、
と改めて気がつかされます。
誰かのために生きて、
それで喜んでいただいて
私もうれしい。
そんな人生で十分じゃないか。
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