ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』
(女子パウロ会、2009年11月。初出は2000年6月)より。
※印は栗木によるコメントです。
◆6月8日
「喜びは愛。
喜びは、愛に燃える心の当然の実りです。
喜びは、なくてはならないものであり、
眼に見える力の源。
わたしたちのともしびは、
愛による犠牲で燃え続けるでしょう。」182
※喜びを大切にする。
まずは自分の喜びを。
自分が喜んでいない状況で、
相手を喜ばせることができるだろうか。
自分の心に、
安定的な喜びの火がともっていることが
大前提だと思います。
その上で、少しずつ、周りの人々にも、
喜びの輪を広げていけたらいいな。
でも自分の心が
喜びで満たされているのはどんな時か、
と考えてみると、
たくさん寝て、頭がすっきりしているとき、
仕事し過ぎて疲れていないとき、
でしょうか。
まずは健康体であること、
が大切ですね。
◆6月20日
「遠くにいる人たちを愛するのは、
簡単なことです。
インドの飢えた人たちのことを考えるのも、
とても簡単なことなのです。
あなたはまず自分の家庭に、
次にお隣に、
そしてあなたの住んでいるところ、
それからあなたの街に、
目を向けなくてはなりません。
それから、初めて外に向かうのです。」195
※どちらかといえば、
遠くにいる人たちへ、
惜しみない愛を与えつづけた方のように思えるだけに、
深みのある言葉です。
自分と直接関わっていない人たちに、
間接的に愛を与えること。
それよりも、まずは
やはり自分自身を愛し、
家族を愛し、自分の内側を固めてから、
はじめて外へ目を向けること。
言われてみれば、
当然、身内の方が大切ですね。
大切な言葉です。
自分自身にとっても見に染みます。
◆6月21日
「もし、わたしたちが罪でいっぱいなら、
神はわたしたちを満たすことはできません。
たとえ神さまでも、
すでにいっぱいのものを満たすことは、
おできにならないからです。
ですから、わたしたちは空っぽになるために、
ゆるしが必要なのです。
そうすれば、
神がわたしたちを、ご自身で満たしてくださるでしょう。」196
※なぜ祈るのか。
自らの心のなかが、
もやもやしたもので満たされていたのでは、
へり下った謙虚な気持ちで、
物事を見つめることは難しいでしょう。
日々祈っていると、
自分の心のもやが晴れて、
だんだんと空っぽになっていくのを
感じることができます。
私ごときちっぽけな人間が、
という気持ちを思い出して、
謙虚な気持ちを取り戻せるようになります。
月に1回とか、
週に1回とかでは余り効果はないでしょう。
それくらい、私たちの心は汚れやすいものです。
日々の祈りで、
心の汚れをリセットする週間をもてるといいな。
◆6月22日
「つつましい仕事から離れてはいけません。
こういう仕事はだれもしようとしないからです。
仕事が小さすぎるということはありません。
わたしたちはとても小さいので、
小さいやり方で物事を見ているのです。
たとえ、わたしたちがだれかのために、
ちょっとしたことをしたとしても、
全能の神は、すべてを偉大なこととして見てくださいます。
偉大なことができる人たちは、世の中にたくさんいます。
けれど、つつましい仕事をする人たちは、
ほんとうに少ないのです。」197
※どんな仕事も大切。
むしろ小さくみえる仕事、
だれもやろうとしない仕事ほど、
大切だと思っておきたい。
仕事について、
一般にあまり評価されないような仕事について、
ありがたく、大切に思える心を養っておきたい。
神さまの、もしくは天の与えていただいた縁、
を大切にして、目の前のことに力を注ぎ込みたい。
これは、
わかっているように見えて、
案外できないことです。
◆6月26日
「わたしは、ことを大規模に進めるのには賛成しかねます。
わたしたちにとって大切なのは、一人ひとりなのです。
ひとりの人を愛するためには、
ほんとうに親しい間柄にならなくてはならないのです。
もし、数がそろうまで待っていたら、
数の中に一人ひとりを見失うでしょう。
そして、もう二度と、
その人に愛と尊敬とを表すことができないでしょう。
わたしは一対一の接し方を信じます。
わたしにとっては、どの人もイエスさまなのです。
イエスさまはひとりだけですから、
今接しているこの人が、わたしにとっては、
この世界でたったひとりの人なのです。」201
※目の前の一人ひとりを大切に。
仕事の世界でも同じことでしょう。
十年先、二十年先のビジョンも大切ですが、
目の前の一人のお客さまへの対応を疎かにしていては、
何も生まれてこないでしょう。
お客さま一人ひとりを、
イエスさまに見ることは、
仏教徒の私には違和感がありますが、
お客さまを物として扱わないのは当然のこととして、
自分の家族であるかのように扱うこと、
は、日本ではよく見られる考え方だと思います。
実際の家族ではないわけですが、
もし家族だったらどうなのか、
相手のみになって考えることは、
どの仕事でも大切んことだと思います。
2011年4月29日金曜日
2011年4月26日火曜日
鈴木鎮一 『愛に生きる ― 才能は生まれつきではない』1章
小中学生のときに、
ヴァイオリンを習わせてもらえたお陰で、
鈴木鎮一氏のことは、物心ついたころから知っていました。
しかし、その深い教育哲学について、
知る機会を得たのは、大学に進学して、
たまたま鈴木氏の著作を何冊か読んでからのことです。
鈴木鎮一著 『愛に生きる ― 才能は生まれつきではない』
(講談社現代新書、1966年8月。※2009年10月時で、87刷!)
に、鈴木氏の基本的な考え方は凝縮されていますので、
私が共鳴する部分を、数回に分けて、取り上げたいと思います。
※印は栗木によるコメントです。
◆まえがき
「運ということを、
わたしは否定できません。
この世に生まれたということ自体が、
やがて死ぬことと同様に、
すでにどうしようもないことだからです。
けれども、よかれあしかれ、
いったん育てられたわたしたちは、
死ぬ日まで、自分で生きねばならない。
するとそこに、
いかに生きるかという、
のっぴきならない問題が出てきます。
育てられなかった能力は自分でつくらなければならない。
悲運にめげないで、
よい人生に転換しなければならない。
それはあきらめてしまってはいけないし、
あきらめることもない。
そしてそれは、
ひとそれぞれに可能なのです。」4
※各々それなりに不平等な人生を、
いかに生きるか。
生まれ落ちたときの
運ということは人それぞれにあります。
それは生活環境などの外側の問題であることもあるし、
自分の学習能力などの内側の問題であることもあります。
現実を受け入れることは大切ですが、
人の個人的な能力は、
生まれて後の、学習、努力によって、
相当程度、補うことができるものです。
親の立場でよく見極めて、
適切な助力ができれば、
それが一番でしょう。
ただ大人になってからでも、
勉強の機会さえ怠らなければ、
知的な能力については、
相当程度、アップさせることが可能です。
自らの努力によって、
自分の能力はそれなりに
つけていくことができる、と考えます。
◆1章 能力は育てるものだ
「たしかに、人間も同じことで、
なにをするにしても、やり始めはゆっくりですね。
能力が身につく手続きには時間がかかる。
でも、やがてついた能力が、
さらに高い能力を育てるということはまったく事実ですね。
もうだめだとあきらめてしまうと、
せっかく育ち始めていた能力も、
外に現われずにしぼんでしまう。
そこを忍耐強くくり返す。
そうすれば、りっぱに育ってくる。」17
※新しい能力の身につき方。
せっかちにはならないこと。
正しい方法で、
ゆっくりとしつこいくらい
くり返していくことが大切だと思います。
しかしただくり返せば良いわけではなく、
正しいやり方で、くり返すことが大切です。
とはいえ、正しいやり方かどうかは、
自分ではなかなかわからないので、
良い先生との出会いが、
とても大切なものになって来るのだと思います。
一人で勉強せざるを得ない場合は、
謙虚な気持ちで、
絶えずこのやり方でいいのかどうか考え、
良いものに出会えたら、
いつでも改める覚悟をもつことが必要でしょう。
諦めたらそこで終わりなので、
諦めずに続けることが大切です。
「人間のひとりひとりの姿には、
それぞれの歴史が刻みこまれています。
その能力も、感覚も、心も。
ひとそれぞれの顔、その目を心して見るとよろしい。
そこには、
生きてきたその日までの生活の歴史があり、
全人格が現われています。
そしてまた、
その歴史の刻印は、
その人生の歩みとともに刻々変化していきます。」22
※生まれつき、ではない部分に目を向ける。
人を見る目を養うには、
自分自身が日々精進して、
自分を高める努力を怠らないことが大切ですが、
若いうちに色々な経験を積んで、
人間のどろどろした側面も、
それなりに見ておいた方が良いのかもしれません。
人はまずは見た目で評価されるものですが、
その人の内面にもつねに目を配り、
一見パッとしない感じでも、
逆に少し刺のある感じでも、
結果として評価される組織であれたらいいな。
でもやはり、
人一人の評価とは、
軽々しくありたくはない。
たまたま自分の組織とは縁がなくとも、
他では大活躍する可能性を秘めていることを
忘れずにいたい。
「能力は生まれつきではない」22
「環境にないものは育たない」29
「乳児の素質は知りようがない」29
※正直なところ、
生まれついての個々の能力の差は、
それなりにあると思います。
ただ確実なのは、
そこに逃げ込んだところで、
何も解決しない、ということです。
一個人としての対応としては、
自分の能力の成長を信じて、
自分なりの努力を続けていくこと、
それしかないと思います。
「すべての文化的能力は内部から遺伝によって発生するのではなく、
外の環境条件に順応して、内部に育つのである。
遺伝として生ずる人間の優劣をいうならば、
能力の獲得、能力形成の力の優劣、
つまり、環境に順応する能力の感度と速度との優劣の問題である。
こうわたしは考えるのです。
したがって、
すぐれた素質をもって生まれているということの意味は、
環境に順応する感度・速度がすぐれているということです。」31
※すこし抽象的ですが、生まれつきというもの、
素質というものへの、基本的な心がまえとして大切な考え方です。
鈴木氏は、能力を自ら獲得し、
自ら形成していく力に優劣があることは認めています。
つまり個々の能力によって、環境に順応する感度、速度については、
生まれながらに優劣がある、といっているのです。
しかし文化的な能力については、
個々の素質に合わせて、
正しい方法で、日々の努力をくり返していけば、
必ず達成できる、と言っているのです。
「『先生、うちの子はものになるでしょうか。』
おかあさんのこの問いに、わたしは笑って答えました。
『いや、おかあさん、ものにはなりませんよ。』
(中略)
『しかし、お子さんはりっぱな人間になられます。
それだけでいいではありませんか。
ものにならないなら、
むだだからやめさせようという意味がふくまれるのはいけません。
ものになるかという考えには、
うちの子は使いものになるか、
悪くいえば、くいものになるかという
いやらしさがひそんでいるとも考えられます。
すこしでもりっぱに、
より美しい心のひとに、
そして幸福な道へ……
子どもを育てる親としての心配はそれだけでじゅうぶんでしょう。
人間としてりっぱに育てば、
りっぱな道がひらかれ、
人間としてだめにしてしまえば、
子どもはだめな道を歩いていく以外になくなるのです。
お子さんのヴァイオリンはりっぱに育っています。
おかあさん、わたしたちは、
心をますますりっぱにするように努力しましょう。』」34
※子どもの何を育てるのか、
どこに目を向けるのか、つい忘れがちなので、
気をつけたい言葉です。
人間としてりっぱに育てること。
これ以上に大切なことはありません。
すべてはそのための教育であることを、
つねに忘れないようにします。
テストの点数も大切ですが、
そこに至る過程で、何をしたのかを大切にしたい。
人それぞれなので、
こうすれば絶対にうまくいく、
ということはないはずです。
一人ひとりに真剣に向き合って、
この子にとって、一番大切な向き合い方は何か、
考えて行動していきたい。
教師もまた、
そうした日々の努力によってこそ、
磨かれるのだと思っています。
『先生と親とが降参するまでやりましょう。』38
「子ども・母親・先生が一体となっての恐ろしい努力でした。
そして不可能と見えたことが、
やり続けているうちに可能になった。
降参したら不可能のままで終わったはずの能力が生まれた。
目に見えないわずかずつの能力が新しい能力を助け育てて、
ついに一つの大きな能力になったのです。」39
※教育は根くらべ。
親より先に、
子どもより先に、諦めないこと。
本人が何とかしたい、
と思って、努力をしている子に対しては、
何がなんでも結果を出してあげる、
できるかぎりの助力をしてあげる、
のは当然のことだと思います。
ただし、わりと今は、
はじめから気力がなく、
がんばる気がなく、
どうせ私はできないから、
とすべて諦めてしまっている子が多いようです。
そういう場合は、
やはり自分自身の問題なので、
あの手、この手を使って
まず本人のやる気を引き出すことが必要です。
ただし根が深いと、
かなり時間がかかることが多いです。
基本は、信じて受け入れて、期待して、
待ち続けることだと思います。
こちらが諦めてしまわないことが大切です。
「能力は生命である」40
「人間のすべてをつかさどっているのは生命の力です。
生きようとする生命活動……
それが環境条件に応じて大きな力を発揮します。
ただ、鍛えることによって、
人間の生命活動は本来の姿を現わし、
能力を生みます。
その能力は、
さらに休みなく訓練することによってすべての困難を解決し、
より高い能力となっていきます。」40
※能力を育てるとは、
自分の生命の力を信じることなんだ、
ということは、いわゆる学校の勉強だけをしていると、
わかりにくいかもしれません。
でもスポーツや芸術の世界についてみれば、
それはよく分かることだと思います。
生命のというものから、
人間の能力というものを見つめ直し、
その能力を育てるにはどうしたら良いのか、
根本的に深いところから考え直し、
実践されたのが、
鈴木氏の偉大さだと思います。
ヴァイオリンを習わせてもらえたお陰で、
鈴木鎮一氏のことは、物心ついたころから知っていました。
しかし、その深い教育哲学について、
知る機会を得たのは、大学に進学して、
たまたま鈴木氏の著作を何冊か読んでからのことです。
鈴木鎮一著 『愛に生きる ― 才能は生まれつきではない』
(講談社現代新書、1966年8月。※2009年10月時で、87刷!)
に、鈴木氏の基本的な考え方は凝縮されていますので、
私が共鳴する部分を、数回に分けて、取り上げたいと思います。
※印は栗木によるコメントです。
◆まえがき
「運ということを、
わたしは否定できません。
この世に生まれたということ自体が、
やがて死ぬことと同様に、
すでにどうしようもないことだからです。
けれども、よかれあしかれ、
いったん育てられたわたしたちは、
死ぬ日まで、自分で生きねばならない。
するとそこに、
いかに生きるかという、
のっぴきならない問題が出てきます。
育てられなかった能力は自分でつくらなければならない。
悲運にめげないで、
よい人生に転換しなければならない。
それはあきらめてしまってはいけないし、
あきらめることもない。
そしてそれは、
ひとそれぞれに可能なのです。」4
※各々それなりに不平等な人生を、
いかに生きるか。
生まれ落ちたときの
運ということは人それぞれにあります。
それは生活環境などの外側の問題であることもあるし、
自分の学習能力などの内側の問題であることもあります。
現実を受け入れることは大切ですが、
人の個人的な能力は、
生まれて後の、学習、努力によって、
相当程度、補うことができるものです。
親の立場でよく見極めて、
適切な助力ができれば、
それが一番でしょう。
ただ大人になってからでも、
勉強の機会さえ怠らなければ、
知的な能力については、
相当程度、アップさせることが可能です。
自らの努力によって、
自分の能力はそれなりに
つけていくことができる、と考えます。
◆1章 能力は育てるものだ
「たしかに、人間も同じことで、
なにをするにしても、やり始めはゆっくりですね。
能力が身につく手続きには時間がかかる。
でも、やがてついた能力が、
さらに高い能力を育てるということはまったく事実ですね。
もうだめだとあきらめてしまうと、
せっかく育ち始めていた能力も、
外に現われずにしぼんでしまう。
そこを忍耐強くくり返す。
そうすれば、りっぱに育ってくる。」17
※新しい能力の身につき方。
せっかちにはならないこと。
正しい方法で、
ゆっくりとしつこいくらい
くり返していくことが大切だと思います。
しかしただくり返せば良いわけではなく、
正しいやり方で、くり返すことが大切です。
とはいえ、正しいやり方かどうかは、
自分ではなかなかわからないので、
良い先生との出会いが、
とても大切なものになって来るのだと思います。
一人で勉強せざるを得ない場合は、
謙虚な気持ちで、
絶えずこのやり方でいいのかどうか考え、
良いものに出会えたら、
いつでも改める覚悟をもつことが必要でしょう。
諦めたらそこで終わりなので、
諦めずに続けることが大切です。
「人間のひとりひとりの姿には、
それぞれの歴史が刻みこまれています。
その能力も、感覚も、心も。
ひとそれぞれの顔、その目を心して見るとよろしい。
そこには、
生きてきたその日までの生活の歴史があり、
全人格が現われています。
そしてまた、
その歴史の刻印は、
その人生の歩みとともに刻々変化していきます。」22
※生まれつき、ではない部分に目を向ける。
人を見る目を養うには、
自分自身が日々精進して、
自分を高める努力を怠らないことが大切ですが、
若いうちに色々な経験を積んで、
人間のどろどろした側面も、
それなりに見ておいた方が良いのかもしれません。
人はまずは見た目で評価されるものですが、
その人の内面にもつねに目を配り、
一見パッとしない感じでも、
逆に少し刺のある感じでも、
結果として評価される組織であれたらいいな。
でもやはり、
人一人の評価とは、
軽々しくありたくはない。
たまたま自分の組織とは縁がなくとも、
他では大活躍する可能性を秘めていることを
忘れずにいたい。
「能力は生まれつきではない」22
「環境にないものは育たない」29
「乳児の素質は知りようがない」29
※正直なところ、
生まれついての個々の能力の差は、
それなりにあると思います。
ただ確実なのは、
そこに逃げ込んだところで、
何も解決しない、ということです。
一個人としての対応としては、
自分の能力の成長を信じて、
自分なりの努力を続けていくこと、
それしかないと思います。
「すべての文化的能力は内部から遺伝によって発生するのではなく、
外の環境条件に順応して、内部に育つのである。
遺伝として生ずる人間の優劣をいうならば、
能力の獲得、能力形成の力の優劣、
つまり、環境に順応する能力の感度と速度との優劣の問題である。
こうわたしは考えるのです。
したがって、
すぐれた素質をもって生まれているということの意味は、
環境に順応する感度・速度がすぐれているということです。」31
※すこし抽象的ですが、生まれつきというもの、
素質というものへの、基本的な心がまえとして大切な考え方です。
鈴木氏は、能力を自ら獲得し、
自ら形成していく力に優劣があることは認めています。
つまり個々の能力によって、環境に順応する感度、速度については、
生まれながらに優劣がある、といっているのです。
しかし文化的な能力については、
個々の素質に合わせて、
正しい方法で、日々の努力をくり返していけば、
必ず達成できる、と言っているのです。
「『先生、うちの子はものになるでしょうか。』
おかあさんのこの問いに、わたしは笑って答えました。
『いや、おかあさん、ものにはなりませんよ。』
(中略)
『しかし、お子さんはりっぱな人間になられます。
それだけでいいではありませんか。
ものにならないなら、
むだだからやめさせようという意味がふくまれるのはいけません。
ものになるかという考えには、
うちの子は使いものになるか、
悪くいえば、くいものになるかという
いやらしさがひそんでいるとも考えられます。
すこしでもりっぱに、
より美しい心のひとに、
そして幸福な道へ……
子どもを育てる親としての心配はそれだけでじゅうぶんでしょう。
人間としてりっぱに育てば、
りっぱな道がひらかれ、
人間としてだめにしてしまえば、
子どもはだめな道を歩いていく以外になくなるのです。
お子さんのヴァイオリンはりっぱに育っています。
おかあさん、わたしたちは、
心をますますりっぱにするように努力しましょう。』」34
※子どもの何を育てるのか、
どこに目を向けるのか、つい忘れがちなので、
気をつけたい言葉です。
人間としてりっぱに育てること。
これ以上に大切なことはありません。
すべてはそのための教育であることを、
つねに忘れないようにします。
テストの点数も大切ですが、
そこに至る過程で、何をしたのかを大切にしたい。
人それぞれなので、
こうすれば絶対にうまくいく、
ということはないはずです。
一人ひとりに真剣に向き合って、
この子にとって、一番大切な向き合い方は何か、
考えて行動していきたい。
教師もまた、
そうした日々の努力によってこそ、
磨かれるのだと思っています。
『先生と親とが降参するまでやりましょう。』38
「子ども・母親・先生が一体となっての恐ろしい努力でした。
そして不可能と見えたことが、
やり続けているうちに可能になった。
降参したら不可能のままで終わったはずの能力が生まれた。
目に見えないわずかずつの能力が新しい能力を助け育てて、
ついに一つの大きな能力になったのです。」39
※教育は根くらべ。
親より先に、
子どもより先に、諦めないこと。
本人が何とかしたい、
と思って、努力をしている子に対しては、
何がなんでも結果を出してあげる、
できるかぎりの助力をしてあげる、
のは当然のことだと思います。
ただし、わりと今は、
はじめから気力がなく、
がんばる気がなく、
どうせ私はできないから、
とすべて諦めてしまっている子が多いようです。
そういう場合は、
やはり自分自身の問題なので、
あの手、この手を使って
まず本人のやる気を引き出すことが必要です。
ただし根が深いと、
かなり時間がかかることが多いです。
基本は、信じて受け入れて、期待して、
待ち続けることだと思います。
こちらが諦めてしまわないことが大切です。
「能力は生命である」40
「人間のすべてをつかさどっているのは生命の力です。
生きようとする生命活動……
それが環境条件に応じて大きな力を発揮します。
ただ、鍛えることによって、
人間の生命活動は本来の姿を現わし、
能力を生みます。
その能力は、
さらに休みなく訓練することによってすべての困難を解決し、
より高い能力となっていきます。」40
※能力を育てるとは、
自分の生命の力を信じることなんだ、
ということは、いわゆる学校の勉強だけをしていると、
わかりにくいかもしれません。
でもスポーツや芸術の世界についてみれば、
それはよく分かることだと思います。
生命のというものから、
人間の能力というものを見つめ直し、
その能力を育てるにはどうしたら良いのか、
根本的に深いところから考え直し、
実践されたのが、
鈴木氏の偉大さだと思います。
皇后陛下 『橋をかける』
子供のときに、
良書に親しむことがいかに大切なことか、
美しい日本語でわかりやすく語りかけてくれるのは、
美智子皇后陛下の講演録
『橋をかける 子供時代の読書の思い出』
(文春文庫、平成21年4月。初出は平成10年11月)
です。
同書には、
平成10年にインドのニューデリーで開催された
国際児童図書評議会(IBBY)の第26回世界大会おける基調講演と、
平成14年にスイスのバーゼル市で開催された
IBBY50周年記念大会の開会式におけるお祝いの挨拶が収録されています。
私が特に感銘を受けているのは、次の一文です。
(講演録「橋をかける 子供時代の読書の思い出」36~38頁より)
「今振り返って、私にとり、
子供時代の読書とは何だったのでしょう。
何よりも、
それは私に楽しみを与えてくれました。
そして、その後に来る、
青年期の読書のための基礎を作ってくれました。
それはある時には私に根っこを与え、
ある時には翼をくれました。
この根っこと翼は、
私が外に、内に、橋をかけ、
自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、
大きな助けとなってくれました。
読書は私に、悲しみや喜びにつき、
思い巡らす機会を与えてくれました。
本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、
私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、
どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、
本を読むことによってでした。
自分とは比較にならぬ多くの苦しみ、
悲しみを経ている子供達の存在を思いますと、
私は、自分の恵まれ、保護されていた子供時代に、
なお悲しみはあったと言うことを控えるべきかもしれません。
しかしどのような生にも悲しみはあり、
一人一人の子供の涙には、それなりの重さがあります。
私が、自分の小さな悲しみの中で、
本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。
本の中で人生の悲しみを知ることは、
自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、
他者への思いを深めますが、本の中で、
過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは、
読む者に生きる喜びを与え、
失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、
再び飛翔する翼をととのえさせます。
悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには、
悲しみに耐える心が養われると共に、
喜びを敏感に感じとる心、又、
喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。
そして最後にもう一つ、
本への感謝をこめてつけ加えます。
読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。
私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。
人と人との関係においても。国と国との関係においても。」
良書に親しむことは、
大人にとってもたいへん有意義なことだと思いますが、
とくに子供時代に良書に親しむことの大切さについて、
誰にでもわかる言葉で語りかけられています。
人間にとって、
まず経験が第一なのは言うまでもありませんが、
一個人が経験できる事柄はごく限られた範囲に過ぎません。
経験したことがすべてだ、と思ってしまうと、
個人の思い上がりをまねきやすくなるでしょう。
個人の経験の足りないところを補うためにも、
読書の果たす役割はたいへん大きいと思います。
良書に親しむことがいかに大切なことか、
美しい日本語でわかりやすく語りかけてくれるのは、
美智子皇后陛下の講演録
『橋をかける 子供時代の読書の思い出』
(文春文庫、平成21年4月。初出は平成10年11月)
です。
同書には、
平成10年にインドのニューデリーで開催された
国際児童図書評議会(IBBY)の第26回世界大会おける基調講演と、
平成14年にスイスのバーゼル市で開催された
IBBY50周年記念大会の開会式におけるお祝いの挨拶が収録されています。
私が特に感銘を受けているのは、次の一文です。
(講演録「橋をかける 子供時代の読書の思い出」36~38頁より)
「今振り返って、私にとり、
子供時代の読書とは何だったのでしょう。
何よりも、
それは私に楽しみを与えてくれました。
そして、その後に来る、
青年期の読書のための基礎を作ってくれました。
それはある時には私に根っこを与え、
ある時には翼をくれました。
この根っこと翼は、
私が外に、内に、橋をかけ、
自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、
大きな助けとなってくれました。
読書は私に、悲しみや喜びにつき、
思い巡らす機会を与えてくれました。
本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、
私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、
どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、
本を読むことによってでした。
自分とは比較にならぬ多くの苦しみ、
悲しみを経ている子供達の存在を思いますと、
私は、自分の恵まれ、保護されていた子供時代に、
なお悲しみはあったと言うことを控えるべきかもしれません。
しかしどのような生にも悲しみはあり、
一人一人の子供の涙には、それなりの重さがあります。
私が、自分の小さな悲しみの中で、
本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。
本の中で人生の悲しみを知ることは、
自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、
他者への思いを深めますが、本の中で、
過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは、
読む者に生きる喜びを与え、
失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、
再び飛翔する翼をととのえさせます。
悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには、
悲しみに耐える心が養われると共に、
喜びを敏感に感じとる心、又、
喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。
そして最後にもう一つ、
本への感謝をこめてつけ加えます。
読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。
私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。
人と人との関係においても。国と国との関係においても。」
良書に親しむことは、
大人にとってもたいへん有意義なことだと思いますが、
とくに子供時代に良書に親しむことの大切さについて、
誰にでもわかる言葉で語りかけられています。
人間にとって、
まず経験が第一なのは言うまでもありませんが、
一個人が経験できる事柄はごく限られた範囲に過ぎません。
経験したことがすべてだ、と思ってしまうと、
個人の思い上がりをまねきやすくなるでしょう。
個人の経験の足りないところを補うためにも、
読書の果たす役割はたいへん大きいと思います。
2011年4月22日金曜日
『自助論』10章~人間の器量
噂に違わず、汲めども尽きぬ泉のような一冊でした。
スラスラと読み通せる、竹内均氏の訳にも感謝。
さらにしばらく、熟読吟味したいと思います。
サミュエル・スマイルズ著、竹内均訳『自助論』
(三笠書房 知的生きかた文庫、2002年4月改訂新板)より。
※印は栗木によるコメントです。
10章 人間の器量
「立派な人格―それは人生の最も気高い宝である。
人格はそれ自体がすぐれた身分であり、
世間の信用を勝ち取れる財産だ。
社会的な地位がどうであれ、
立派な人格者はそれだけで尊敬を受ける。」261
※人格に着目すること。
お金持ちか、どこの大学を出ているのか、家柄はどうか、
だけで人を判断すると、間違いのもとです。
しかし、その人を一目みて、
人格まで正しく判断できるとは
思わないほうがようでしょう。
その点、入社試験などの際に、
学歴、家柄などで
ある程度振り分けられるのは、
仕方のないところもあるでしょう。
でもやはり、
最終的に勝負となるのが、
人格であることは確かだと思います。
「立派な人格は人間の最良の特性である。
人格者は社会の良心であり、
同時に国家の原動力になる。
世界を支配するのは高いモラルに他ならない。」262
※モラルが社会を、国家を支配する。
トップが責任を回避したり、
嘘をついてはダメ。
私腹を肥やしてはダメ。
トップの人格を問うことは、
あまり厳しすぎるのも考えものですが、
基本的な考え方として
あるべきことだと思います。
「知性あふれる人間を尊敬するのはいっこうにかまわない。
だが知性以上の何かがなければ、
彼らを信用するのは早計に過ぎる。」263
※学歴だけではダメ、
知的なだけでもダメ。
立派な人格の持ち主か、が一番大事。
私的な人間づきあいには、
とくに大切な視点でしょう。
「『知は力なり』といわれる。
だがもっと深遠な意味でいえば、
人格こそが力なのである。
愛情なき心、行動を伴わぬ知性、
やさしさに欠けた才気……
これらも確かに力ではあるが、
ヘタをすると害悪をもたらすだけのものになりかねない。」265
※心が伴わない知性は害である。
それはよくわかります。
勉強ができるだけ、では
社会に出てからかえって苦労することは多いでしょう。
学校は学校として、
知力を鍛える場でよいと思いますが、
それだけで
社会に出てから評価されるわけでないことは知っておきたい。
『常に良心が命じる義務を果たし、
結果は天にまかせよ』
(アースキン、幼少のころ両親から受けた教え)266
※良心に耳をかたむけて生きる。
若い時ほど、どう生きるか迷うことがあります。
年をとってきても、それなりにあります。
そんな時に、
「良心が命じる義務を果たすこと」を基準にすると、
まちがうことは少なくなるでしょう。
『顔を高く上げようとしない若者は、
いつしか足もとばかり眺めて生きるようになるだろう。
空高く飛ぼうとしない精神は、
地べたをはいつくばる運命をたどるだろう』
(政治家ディズレリー)267
※顔を高く上げる。
自分でそうしなければ、
誰も押し上げてはくれない。
足もとばかりながめながら、
下を向いてばかりで、
なぜかしら結果がうまくいくことは
まずあり得ないものです。
「言行一致は、
立派な人格のバックボーンを成している。
常に誠実な言動を心がけるのが
人格者のすぐれた特質なのだ。」268
※言行一致はむつかしい。
でもそれを理想にすることは大切。
つねに誠実であろうとすること、
わたしはとりあえず、
無言実行ではありたいと思っています。
「言葉上だけでなく行動においても誠実たらんと努力することが、
高潔な人格をつくる基本だ。
人は外見と内実とを一致させなくてはいけないし、
かくありたいと思う理想像に
自分自身を実際に重ね合わせていくべきなのである。」269
※誠実に生きること。
誠実さとは、言行一致であること。
その分、どうしても実現したいことは、
ちゃんと口に出して、自分を追い込んで、
死に物狂いで努力して、
結果を出していくことも時には必要でしょう。
「誠実さと良心は、
人間として誇るべき資質である。逆に、
行動と言葉がバラバラな人間は決して尊敬などされないし、
彼らが語る言葉には何の重みもない。」270
※良心の声に耳を傾けて、
誠実に生きる。
言っていることと
やっていることが違うと、
誰からも信用されなくなる。
それは日々肝に銘じておきたい。
うっかり違ってくることは
誰にでも起きかねないことですから、
軽々しく嘘をつくことはしない。
「良心とは人格を守る砦であり、
人生にも大きな影響を与える。
良心を失えば人格は守られるすべもなく、
誘惑のえじきとなり果てるだろう。
誘惑に屈するにつれ、
人は卑劣で不誠実な道に迷いこみ、
堕落する。」271
※良心って何だろう?
自分の心の中の言葉に耳を傾ける。
何か決断を下すとき、
何か新しいことをはじめるとき、
それは良心に照らしてどうなのか、
考えるようにすると、
道を誤る瞬間を避けられるかもしれません。
困ったときは自分の良心に相談する。
相談するに足るだけの良心を、
物心つくまでに育てておきたいものです。
『行動でも思考でも反復こそが力である』
(詩人メタスターシオ)272
※くり返せるかどうかは、
学問の要でもある。
すぐに飽きる人は、
何ごとも成就しない。
『立派な習慣を身につけるよう気をくばるのが、
いちばん賢明な習慣』
(リンチ)273
※良い習慣を
日ごろの生活の中にどれだけ取り入れられるかは、
親から子どもへの一番の贈り物でしょう。
「人に対する思いやりは、
万物に生気を与える日光のように
無言の影響力を持っている。」275
※思いやりの心を忘れない。
思いやりの心を持つことは、
誰にでもできることです。
それをするかしないか、
その影響は自分が思うより、
大きなものとなるでしょう。
『礼儀作法には金がかからない。
しかも礼をつくすだけで何でも手に入る。』
(モンタギュー夫人)276
※礼儀も大切。
人が人を評価するのは、
まず見た目からです。
とくに若いうちは、
まず見た目をしっかり整えるようにしたい。
「われわれは、
気どったり策略を弄したりせずとも、
心から親切にふるまうだけで周囲に好感と喜びを与えられる。」276
※思いやりと親切の気持ちが何より。
それは誰にでもできる簡単なことです。
心をきれいにたもって、
相手のことを第一に考えて、
思いやりの心を忘れないで行動し続けていいるうちに、
自然と身についてきます。
「マナーは、
行動を引き立たせる装身具のようなものだ。
親身な言葉をかけたり思いやりを行動で表わしたりするには、
それにふさわしい方法がある。」277
※マナーにも気を配ろう。
人が人を評価するのは、
まず見た目からです。
わざわざ低い評価を得ることのないように、
それなりに気を使って、
最低限のマナーを身につけられるように
努力しましょう。
「多くの人はそれほど寛大ではない。
外面に表われるふるまいを見て
その人間を判断し好き嫌いを決める、
というのが世間一般の常識なのだ。」279
※世間に甘えない。
自分で思うより、
世間は厳しいものです。
かといって、無理な背伸びをしても仕方がないので、
今の自分が正当に評価されるように、
今の自分ができる範囲で、
できるだけの努力はしておきましょう。
見た目、マナーについても。
「真の人格者であるかどうかは、
服装や生活様式や態度ではなく
道徳的価値によって決まる。
財産ではなく人柄が、
その判断の基準になる。」282
※そうはいっても、
最終的に大切なのは、人柄であることを知る。
根本は人柄。
そこをおろそかにしてはならない。
服装も、生活様式も、財産も、
よい人柄があってこそ、
相乗効果で高まってくる。
「誠実と礼節を忘れず、
節度と勇気を持ち、
自尊心と自助の精神にのっとって生きる人は、
貧富のいかんを問わず真の人格者なのだ。」285
※誠実に生きる、
世間にとけこんで、
慎ましやかに生きる、
勇気を持って生きる、
プライドを持って生きる、
自らの手足で生きる、
大事なことばかりだ。
「ほんとうの勇気は常にやさしさと共にある」287
※勇気とは暴力的であることではない。
やさしさにもとづく勇気が大切。
「真の人格者であるかどうかを計るものさしはたくさんある。
中でもまちがいのない方法は、
その人間が目下の者にどうふるまうかを見ることだ。」289
※威張るリーダーは偽物。
目が上についているリーダー、
目上の者の顔色ばかりうかがっているリーダーは偽物。
でもそんなリーダーはどこにでもいる。
組織の中で生きていくためには、
そうしたリーダーのもとで生きていく処世術も必要。
「真の人格者であれば、
そのちょっとしたふるまいにも
他人に対する気くばりが行き届いている。
相手が対等な立場であろうと目下の者であろうと、
その気くばりは変わらない。」290
※上に立つものほど、気配りを忘れない。
目が下についているかどうか。
部下を信頼して、
仕事を任せて、
失敗したときの責任は自分が取る、
そんなリーダーになれたらいいな。
スラスラと読み通せる、竹内均氏の訳にも感謝。
さらにしばらく、熟読吟味したいと思います。
サミュエル・スマイルズ著、竹内均訳『自助論』
(三笠書房 知的生きかた文庫、2002年4月改訂新板)より。
※印は栗木によるコメントです。
10章 人間の器量
「立派な人格―それは人生の最も気高い宝である。
人格はそれ自体がすぐれた身分であり、
世間の信用を勝ち取れる財産だ。
社会的な地位がどうであれ、
立派な人格者はそれだけで尊敬を受ける。」261
※人格に着目すること。
お金持ちか、どこの大学を出ているのか、家柄はどうか、
だけで人を判断すると、間違いのもとです。
しかし、その人を一目みて、
人格まで正しく判断できるとは
思わないほうがようでしょう。
その点、入社試験などの際に、
学歴、家柄などで
ある程度振り分けられるのは、
仕方のないところもあるでしょう。
でもやはり、
最終的に勝負となるのが、
人格であることは確かだと思います。
「立派な人格は人間の最良の特性である。
人格者は社会の良心であり、
同時に国家の原動力になる。
世界を支配するのは高いモラルに他ならない。」262
※モラルが社会を、国家を支配する。
トップが責任を回避したり、
嘘をついてはダメ。
私腹を肥やしてはダメ。
トップの人格を問うことは、
あまり厳しすぎるのも考えものですが、
基本的な考え方として
あるべきことだと思います。
「知性あふれる人間を尊敬するのはいっこうにかまわない。
だが知性以上の何かがなければ、
彼らを信用するのは早計に過ぎる。」263
※学歴だけではダメ、
知的なだけでもダメ。
立派な人格の持ち主か、が一番大事。
私的な人間づきあいには、
とくに大切な視点でしょう。
「『知は力なり』といわれる。
だがもっと深遠な意味でいえば、
人格こそが力なのである。
愛情なき心、行動を伴わぬ知性、
やさしさに欠けた才気……
これらも確かに力ではあるが、
ヘタをすると害悪をもたらすだけのものになりかねない。」265
※心が伴わない知性は害である。
それはよくわかります。
勉強ができるだけ、では
社会に出てからかえって苦労することは多いでしょう。
学校は学校として、
知力を鍛える場でよいと思いますが、
それだけで
社会に出てから評価されるわけでないことは知っておきたい。
『常に良心が命じる義務を果たし、
結果は天にまかせよ』
(アースキン、幼少のころ両親から受けた教え)266
※良心に耳をかたむけて生きる。
若い時ほど、どう生きるか迷うことがあります。
年をとってきても、それなりにあります。
そんな時に、
「良心が命じる義務を果たすこと」を基準にすると、
まちがうことは少なくなるでしょう。
『顔を高く上げようとしない若者は、
いつしか足もとばかり眺めて生きるようになるだろう。
空高く飛ぼうとしない精神は、
地べたをはいつくばる運命をたどるだろう』
(政治家ディズレリー)267
※顔を高く上げる。
自分でそうしなければ、
誰も押し上げてはくれない。
足もとばかりながめながら、
下を向いてばかりで、
なぜかしら結果がうまくいくことは
まずあり得ないものです。
「言行一致は、
立派な人格のバックボーンを成している。
常に誠実な言動を心がけるのが
人格者のすぐれた特質なのだ。」268
※言行一致はむつかしい。
でもそれを理想にすることは大切。
つねに誠実であろうとすること、
わたしはとりあえず、
無言実行ではありたいと思っています。
「言葉上だけでなく行動においても誠実たらんと努力することが、
高潔な人格をつくる基本だ。
人は外見と内実とを一致させなくてはいけないし、
かくありたいと思う理想像に
自分自身を実際に重ね合わせていくべきなのである。」269
※誠実に生きること。
誠実さとは、言行一致であること。
その分、どうしても実現したいことは、
ちゃんと口に出して、自分を追い込んで、
死に物狂いで努力して、
結果を出していくことも時には必要でしょう。
「誠実さと良心は、
人間として誇るべき資質である。逆に、
行動と言葉がバラバラな人間は決して尊敬などされないし、
彼らが語る言葉には何の重みもない。」270
※良心の声に耳を傾けて、
誠実に生きる。
言っていることと
やっていることが違うと、
誰からも信用されなくなる。
それは日々肝に銘じておきたい。
うっかり違ってくることは
誰にでも起きかねないことですから、
軽々しく嘘をつくことはしない。
「良心とは人格を守る砦であり、
人生にも大きな影響を与える。
良心を失えば人格は守られるすべもなく、
誘惑のえじきとなり果てるだろう。
誘惑に屈するにつれ、
人は卑劣で不誠実な道に迷いこみ、
堕落する。」271
※良心って何だろう?
自分の心の中の言葉に耳を傾ける。
何か決断を下すとき、
何か新しいことをはじめるとき、
それは良心に照らしてどうなのか、
考えるようにすると、
道を誤る瞬間を避けられるかもしれません。
困ったときは自分の良心に相談する。
相談するに足るだけの良心を、
物心つくまでに育てておきたいものです。
『行動でも思考でも反復こそが力である』
(詩人メタスターシオ)272
※くり返せるかどうかは、
学問の要でもある。
すぐに飽きる人は、
何ごとも成就しない。
『立派な習慣を身につけるよう気をくばるのが、
いちばん賢明な習慣』
(リンチ)273
※良い習慣を
日ごろの生活の中にどれだけ取り入れられるかは、
親から子どもへの一番の贈り物でしょう。
「人に対する思いやりは、
万物に生気を与える日光のように
無言の影響力を持っている。」275
※思いやりの心を忘れない。
思いやりの心を持つことは、
誰にでもできることです。
それをするかしないか、
その影響は自分が思うより、
大きなものとなるでしょう。
『礼儀作法には金がかからない。
しかも礼をつくすだけで何でも手に入る。』
(モンタギュー夫人)276
※礼儀も大切。
人が人を評価するのは、
まず見た目からです。
とくに若いうちは、
まず見た目をしっかり整えるようにしたい。
「われわれは、
気どったり策略を弄したりせずとも、
心から親切にふるまうだけで周囲に好感と喜びを与えられる。」276
※思いやりと親切の気持ちが何より。
それは誰にでもできる簡単なことです。
心をきれいにたもって、
相手のことを第一に考えて、
思いやりの心を忘れないで行動し続けていいるうちに、
自然と身についてきます。
「マナーは、
行動を引き立たせる装身具のようなものだ。
親身な言葉をかけたり思いやりを行動で表わしたりするには、
それにふさわしい方法がある。」277
※マナーにも気を配ろう。
人が人を評価するのは、
まず見た目からです。
わざわざ低い評価を得ることのないように、
それなりに気を使って、
最低限のマナーを身につけられるように
努力しましょう。
「多くの人はそれほど寛大ではない。
外面に表われるふるまいを見て
その人間を判断し好き嫌いを決める、
というのが世間一般の常識なのだ。」279
※世間に甘えない。
自分で思うより、
世間は厳しいものです。
かといって、無理な背伸びをしても仕方がないので、
今の自分が正当に評価されるように、
今の自分ができる範囲で、
できるだけの努力はしておきましょう。
見た目、マナーについても。
「真の人格者であるかどうかは、
服装や生活様式や態度ではなく
道徳的価値によって決まる。
財産ではなく人柄が、
その判断の基準になる。」282
※そうはいっても、
最終的に大切なのは、人柄であることを知る。
根本は人柄。
そこをおろそかにしてはならない。
服装も、生活様式も、財産も、
よい人柄があってこそ、
相乗効果で高まってくる。
「誠実と礼節を忘れず、
節度と勇気を持ち、
自尊心と自助の精神にのっとって生きる人は、
貧富のいかんを問わず真の人格者なのだ。」285
※誠実に生きる、
世間にとけこんで、
慎ましやかに生きる、
勇気を持って生きる、
プライドを持って生きる、
自らの手足で生きる、
大事なことばかりだ。
「ほんとうの勇気は常にやさしさと共にある」287
※勇気とは暴力的であることではない。
やさしさにもとづく勇気が大切。
「真の人格者であるかどうかを計るものさしはたくさんある。
中でもまちがいのない方法は、
その人間が目下の者にどうふるまうかを見ることだ。」289
※威張るリーダーは偽物。
目が上についているリーダー、
目上の者の顔色ばかりうかがっているリーダーは偽物。
でもそんなリーダーはどこにでもいる。
組織の中で生きていくためには、
そうしたリーダーのもとで生きていく処世術も必要。
「真の人格者であれば、
そのちょっとしたふるまいにも
他人に対する気くばりが行き届いている。
相手が対等な立場であろうと目下の者であろうと、
その気くばりは変わらない。」290
※上に立つものほど、気配りを忘れない。
目が下についているかどうか。
部下を信頼して、
仕事を任せて、
失敗したときの責任は自分が取る、
そんなリーダーになれたらいいな。
2011年4月12日火曜日
『自助論』9章~すばらしい出会い
スマイルズ著、竹内均訳『自助論』
(三笠書房 知的生きかた文庫、2002年4月改訂新板)より抜粋。
※印は栗木によるコメントです。
9章 すばらしい出会い
「ことわざや格言も、
確かにわれわれの進むべき道を示してはくれる。
だが実際に人間を導くものは、
ものいわぬ無数の手本であり、
生活をとりまく現実の模範なのだ。」237
※よき師にめぐり逢うことは、本当に大切なことだと思います。
でもそれはまた、難しいことでもあります。
師と弟子どちらかの一方通行ではうまくいかないわけで、
狭く貧しい心しか持たない私が、
広く豊かな心を持った師にめぐり逢う幸せは、
なかなかないことと、知らなければいけなかったなあと、
今にして反省しています。
「家庭は社会の結晶であり、
国民性の核を成している。
われわれの公私の生活を支配する習慣や信条、主義主張は、
それが清いものであれ汚れたものであれ、
家庭の中で培われる。」238
※家庭では実際
いろいろなことが起きるわけですが、
それでもやはり、
家庭がすべての礎であると思います。
そのことを忘れずに、
まずはわが家庭に
よい流れを呼び込めるようにすることが
大切だと思います。
『社会の中でわれわれが属している最小単位、
すなわち家庭を愛することが社会全体を愛するための第一歩である』
(政治思想家バーク)238
※社会に目を向ける、すべての前提として、
家族を愛する現実が先に立たないと、
いろんなモノが狂って来るなあ、と思います。
家族を飛び越えて、
視点がいきなり個人へと向かうことのないように、
心がけたいものです。
「現代に生きる人間は、
それに先立つ幾世代の文化によって育てられた果実に他ならず、
はるか遠い過去とずっと先の未来とを
行動と手本によって結びつける磁石の役割をになっている。」241
※幾世代にもわたるご先祖さまの努力があって
今の私があることへの感謝は忘れてならないと思います。
過去をしっかりと見つめることで、
未来への責任ある視点が養われて来ます。
過去とも未来とも切り離された
宙ぶらりんの私であることを、
恥だと思うようにしたい。
「立派に歩んだ人生と正直一途な人格は、
子孫と社会への大切な遺産である。
このような人生や人間性は、
美徳の何たるかを雄弁に教え、
悪徳をきびしく批判する。」243
※自分をすてること、他人のために生きることが、
何より大切である、という価値観は、私が受けてきた教育では、
それほど当り前のものではなかったように思われます。
でも社会に出て、自分よりも、
他人のために働いてみることで、
自分の心のすき間がどれほど埋められるものなのか、
何が本当の幸せなのか、教えられたように思います。
『人に何かしてもらいたいと望むなら、
自分が率先してそれをやるべきです。
口先ばかり達者でも何の役にも立ちません』
(チザム夫人)244
※実践することは、
しんどくて大変なことなので、
ついつい口先ばかりになりがちなのが、
ふつうの人間だと思います。
そんな私を叱咤激励する言葉を
日々かみしめて、
まず私が席をたって仕事をする、
そんな私でありたい。
「よい忠告を与えながら悪い手本を見せているのは、
左手で家を建てながら右手でそれを取り壊しているようなものだ。」247
※教育者としての自分への戒め。
かといって、自分の心に嘘をついてもいけないので、
ごく自然に、よいお手本が示せるように、
日々の生活を戒めていけたらいいです。
『つまらぬ友と付き合うくらいなら一人で生きよ』
(海軍将校コリングウッド)248
※これは厳しい言葉です。
実際は、人は本物の孤独には耐えられないものです。
特に、味方となる家族すら一人もいない状況だと、
つまらぬ友であれ、何であれ、
一緒にいたいと思うのが人情でしょう。
つまり、つまらぬ友を遠ざけて、
栄光ある孤独を歩むためには、
家族の惜しみない愛情が降りそそぐ環境に
生きる必要があるのでしょう。
「よき友と付き合えば必ずよい感化を受ける。
野辺を行く旅人の衣に草花の香りがしみつくように、
よい交際はすばらしい恩恵を手みやげに与えてくれる。」249
※よき友との出会いは、
大切にしたいものです。
ただし、実際のよい巡り合いとは、
一生のうちに何度もあることではないので、
周りの人は、
みな自分の師と感じられるような
心境を持てるようになると、
より一層、
よい出会いに包まれるようになるのでしょう。
「真の人生を生きた人間の伝記には、
現代にも実を結ぶ貴重な種子がぎっしり詰まっている。
このような伝記は真実の声であり、
現代に生きる英知だ。
詩人エミルトンの言葉を借りれば、
それは『巨匠の精神に脈打つ血液』に他ならない。」252
※偉人の伝記を読んで、
心ときめかせる経験は、
ぜひ子どものうちに経験しておきたいものです。
そして、
学ぶことの意義からいえば、
大人にとっても、
伝記はたいへん興味深い、
知的財産だと思います。
伝記と歴史から学ぶことは
とても多いです。
「よい手本は人々を引きつけ、
将来をになう世代へ伝えられていく。
したがって書を読む場合も、
交友関係と同じように良書にふれ、
その最良の部分を見習うことが大切だ。」254
※数多くある書物の中で、
その何割かに、
人の精神を病ませる影響のある、
悪書があることは、
注意しておいたほうが良いでしょう。
悪書をたくさん読む害を考えれば、
まだ、何も読まないで
日々の生活に汗をかいていたほうが
健全な精神を保っていけると思います。
「快活さは、人間の精神に弾力性を与える。
元気で働いていれば恐怖心は消え去り、
どんな困難に直面してもヤケを起こしたりしない。
それは希望が心の支えになるためで、
希望に満ちた精神は成功のチャンスを決して逃しはしないのだ。
希望に燃えている人の心は、
健全で幸福そのものである。」256
※快活さがいかに大切か、
一度それをなくして、泥沼にはまって、
快活さを忘れた自分に出会い、もがき苦しんで、
大きな失敗をしてみると、よくわかります。
時にがんばりすぎる所があるので、
心が快活さを失い出したら、
一息ついて、リセットして、がんばり直すことを覚えたら、
人生再び開けて来たようです。
心の快活さを保つこと、
私の人生の基本です。
2011年4月7日木曜日
マザー・テレサ『日々のことば』5月より
謙虚であることを忘れないように、
日々生きていきたいものです。
ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』
(女子パウロ会、2009年11月。初出は2000年6月)より。
※印は栗木によるコメントです。
◆5月1日
「お互いに、心の底から愛し合っている人たちは、
この世でいちばん幸せ者です。
彼らは少ししか、いいえ、まったく何も持っていないかもしれません。
でも幸せなのです。
すべてのことは、
どのように愛し合うかにかかっているのです。」142
※心の底から愛し合える人がいれば、
確かに、ほかに何もいらない。
自分の命も含めて、すべて、すてても構わない、
そう思える相手に出会えるのは、
奇跡的なことだと思います。
だからこそ、もしそういった奇跡に出会えたのなら、
その機会を大切にしていかなければならないと思います。
お金が得られることは幸せですし、
自分に合った仕事が見つかることも幸せですし、
ふさわしい地位や名誉を得られることも幸せです。
でもその幸せは、
心から愛し合える人に出会えた幸せとは、
比べられないくらい小さなものになると思います。
◆5月12日
「わたしは罪深い人間です、と自分では言うけれど、
だれか他の人にそう言われると、憤慨するでしょう。
もし、いわれのないことで非難されたら、
苦しむかもしれませんが、
どんな小さなことでも、
事実に基づいて罰されると、それが当然である場合、
わたしはもっと傷つくでしょう。
自分の欠点が人々に知られることを、
喜んで受け入れなくてはなりません。」153
※自分が不完全な、
欠点だらけの人間であると、
本当にわかっているのか。
他人に、自分の欠点を指摘されて、
腹がたつうちはまだまだ。
若いうちは、
言葉として知っているつもりでも、
実際にはわかっていなかったと思います。
最近はどうでしょうか。
自分の限界は見えてきて、
自分の不完全さはわかってきて、
だいぶ丸くなってきたとは思いますが、
きっとまだまだでしょう。
◆5月13日
「富は、精神的なものであれ、物的なものであれ、
正しく用いられないなら、
息苦しさを与えます。」154
※正しく用いられるなら、
富が心への安らぎを与えることを信じます。
冨それ自体を否定することは、
一生懸命働くことを否定することにもつながるので、
それは違うと思います。
◆5月20日
「人に、優しい愛と思いやりを注ぎましょう。
あなたの惜しみない心遣いと、
あなたのあふれる喜びは、
大きな希望を与えることでしょう。」161
※教師としての心がまえは、
常にこうありたいと思います。
生徒の欠点に気がつくことは大切ですが、
その欠点をしつこく指摘して、修正しようとしても、
まずうまく行かないものです。
まず自分が勉強を楽しみたい。
わたしが楽しくないものを、
人に教えたなら嘘になります。
幸い勉強は、昔から大好きです。
学校の勉強とは、相性がわるいこともありましたが、
勉強自体は、嫌いになったことがありません。
そんな私です。
◆5月21日
「聖くなりますように。
わたしたちはだれでも、
聖くなる可能性を秘めているのです。
そして聖くなるための道は、祈りです。」162
※祈りは、とても大切です。
諦めではなく、祈りを。
これも若いころは気がつきませんでしたが、
地元に帰ってきて、
日々ご先祖さまに手を合わせるようになって、
その大切さに改めて気がつくようになりました。
なにか、具体的な事柄を祈るわけではないのです。
ただただ手を合わせて、静かに祈るのです。
◆5月31日
「あなたの目を、あなた自身に向けることをやめ、
あなたが何も持っていないこと、
ましてや何ものでもないこと、
何もできないことを喜びなさい。
あなたの無があなたを脅かすときはいつでも、
イエスさまに向かって大きくほほえみなさい。
ただイエスさまの喜びだけを持ち続けるように。
それがあなたの力ですから。
いつも喜んで、
平和のうちに、
神が何をあなたから取り去られても、
ほほえみをもって、それを受け入れなさい。」172
※自分のため、
ではない人生にこそ、
ほんとうの生きがいがある。
よく考えてみれば、
当然のことなのですが、
一人でいると、忘れがちな心の持ち方です。
自分のために生きなさい、
といわれて育ってきた記憶が多くあるので、
人のために生きるのがほんとうだ、
といわれると、ああそうか、
と改めて気がつかされます。
誰かのために生きて、
それで喜んでいただいて
私もうれしい。
そんな人生で十分じゃないか。
日々生きていきたいものです。
ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』
(女子パウロ会、2009年11月。初出は2000年6月)より。
※印は栗木によるコメントです。
◆5月1日
「お互いに、心の底から愛し合っている人たちは、
この世でいちばん幸せ者です。
彼らは少ししか、いいえ、まったく何も持っていないかもしれません。
でも幸せなのです。
すべてのことは、
どのように愛し合うかにかかっているのです。」142
※心の底から愛し合える人がいれば、
確かに、ほかに何もいらない。
自分の命も含めて、すべて、すてても構わない、
そう思える相手に出会えるのは、
奇跡的なことだと思います。
だからこそ、もしそういった奇跡に出会えたのなら、
その機会を大切にしていかなければならないと思います。
お金が得られることは幸せですし、
自分に合った仕事が見つかることも幸せですし、
ふさわしい地位や名誉を得られることも幸せです。
でもその幸せは、
心から愛し合える人に出会えた幸せとは、
比べられないくらい小さなものになると思います。
◆5月12日
「わたしは罪深い人間です、と自分では言うけれど、
だれか他の人にそう言われると、憤慨するでしょう。
もし、いわれのないことで非難されたら、
苦しむかもしれませんが、
どんな小さなことでも、
事実に基づいて罰されると、それが当然である場合、
わたしはもっと傷つくでしょう。
自分の欠点が人々に知られることを、
喜んで受け入れなくてはなりません。」153
※自分が不完全な、
欠点だらけの人間であると、
本当にわかっているのか。
他人に、自分の欠点を指摘されて、
腹がたつうちはまだまだ。
若いうちは、
言葉として知っているつもりでも、
実際にはわかっていなかったと思います。
最近はどうでしょうか。
自分の限界は見えてきて、
自分の不完全さはわかってきて、
だいぶ丸くなってきたとは思いますが、
きっとまだまだでしょう。
◆5月13日
「富は、精神的なものであれ、物的なものであれ、
正しく用いられないなら、
息苦しさを与えます。」154
※正しく用いられるなら、
富が心への安らぎを与えることを信じます。
冨それ自体を否定することは、
一生懸命働くことを否定することにもつながるので、
それは違うと思います。
◆5月20日
「人に、優しい愛と思いやりを注ぎましょう。
あなたの惜しみない心遣いと、
あなたのあふれる喜びは、
大きな希望を与えることでしょう。」161
※教師としての心がまえは、
常にこうありたいと思います。
生徒の欠点に気がつくことは大切ですが、
その欠点をしつこく指摘して、修正しようとしても、
まずうまく行かないものです。
まず自分が勉強を楽しみたい。
わたしが楽しくないものを、
人に教えたなら嘘になります。
幸い勉強は、昔から大好きです。
学校の勉強とは、相性がわるいこともありましたが、
勉強自体は、嫌いになったことがありません。
そんな私です。
◆5月21日
「聖くなりますように。
わたしたちはだれでも、
聖くなる可能性を秘めているのです。
そして聖くなるための道は、祈りです。」162
※祈りは、とても大切です。
諦めではなく、祈りを。
これも若いころは気がつきませんでしたが、
地元に帰ってきて、
日々ご先祖さまに手を合わせるようになって、
その大切さに改めて気がつくようになりました。
なにか、具体的な事柄を祈るわけではないのです。
ただただ手を合わせて、静かに祈るのです。
◆5月31日
「あなたの目を、あなた自身に向けることをやめ、
あなたが何も持っていないこと、
ましてや何ものでもないこと、
何もできないことを喜びなさい。
あなたの無があなたを脅かすときはいつでも、
イエスさまに向かって大きくほほえみなさい。
ただイエスさまの喜びだけを持ち続けるように。
それがあなたの力ですから。
いつも喜んで、
平和のうちに、
神が何をあなたから取り去られても、
ほほえみをもって、それを受け入れなさい。」172
※自分のため、
ではない人生にこそ、
ほんとうの生きがいがある。
よく考えてみれば、
当然のことなのですが、
一人でいると、忘れがちな心の持ち方です。
自分のために生きなさい、
といわれて育ってきた記憶が多くあるので、
人のために生きるのがほんとうだ、
といわれると、ああそうか、
と改めて気がつかされます。
誰かのために生きて、
それで喜んでいただいて
私もうれしい。
そんな人生で十分じゃないか。
2011年4月5日火曜日
『自助論』8章~自己修養
スマイルズ著、竹内均訳『自助論』
(三笠書房 知的生きかた文庫、2002年4月改訂新版)より。
※印は栗木によるコメントです。
8章 自己修養
『卓抜な技量は、努力によってのみ与えられる。
すぐれた才能を持っていれば、勤勉がその才能をいっそう高めるだろう。
能力が人並みであっても、勤勉がその欠点を補うだろう。
努力が正しい方向へ向けられてさえいれば、
決して裏切られることはない。
努力なしには、何ものも得られない。』
(画家レーノルズ)204
※努力は基本だと思います。
こつこつした努力の積み重ねが、すべて。
注意すべきは、
正しい方向への努力でなければ、
よい結果はほとんど期待できない、
ということです。
自分で何も考えず、
がむしゃらに努力するだけでは、
なかなかよい結果に結びつきません。
努力は皆がしているもの。
彼我をわけるのは、
正しい努力の積み重ねになってるかどうか、
なのだと思います。
「自信のなさからくる優柔不断な態度も、
人間の進歩をはばむ大きな性格上の欠陥だ。
自信を持ち積極果敢にチャレンジしなければ、
大きな成果など望むべくもない。」208
※自信をもつこと。
これだけ努力したのだから、
結果は気にしない、
といえる所まではがんばる。
優柔不断とはあまり縁がない性格なので、
すんなりと理解できる言葉です。
何かこれだけは、
と思える何かを手に入れることができると、
確かに強いなあ、と思います。
「人間の美徳は、
自分の力で精一杯努力して学んだ時に初めて目覚める。」209
※精一杯のところで勝負する。
しかしそれは、
倒れてしまって、
健康が維持できない所まで、ではない。
健康を維持できる範囲で、
明るく朗らかに生きていられる範囲で、
精一杯な努力をする、
ということだと思います。
「ほんとうの意味で賢くなりたいと願うなら、
まず勤勉の習慣を身につけ、
先達のようにねばり強く努力していく他はない。」210
※勤勉は基本です。
勤勉であることを否定しては、
何も先には動いていかないでしょう。
まずは努力しなければ、
何もはじまりません。
それも小さいうちから、
何ごともまじめに努力する習慣をつけておきたいものです。
『何かに打ちこんでいるほど幸せなことはない。』
(詩人グレイ)211
※することが何もないのはとても苦しい。
それは学校で勉強すること、
外で仕事をすることでなくても、
全然かまわないでしょう。
何かしら、打ち込む対象があることは、
とても幸せなことだと思います。
『さびついてしまうよりボロボロにすり切れたほうがましだ』
(カンバーランド主教)211
※熱血!
そんな生き方も、時にはいいでしょう。
若いうちなら、それでもいい。
「もう一つ忘れてならないのは、
本からいくら重要な経験を学んだとしても、
しょせんは耳学問の域を出ないという点だ。
それに反して、
現実生活から得た経験は真の知恵となる。
わずかな知恵でさえ、
膨大な量の耳学問よりはるかに値打ちが高い。」213
※現実から逃げない。
現場で得た結論が一番大切。
現実から離れるための対象として、
書物の中に逃げこまない。
現場で切磋琢磨されるなかでしか、
人は磨かれないものと知る。
知識を増やすことが何になろう。
それだけでは、何にもならない。
「実践的な知恵は、
自己修養と克己心を通じてのみ得られる。
この両者の根底には自尊心が横たわっている。
希望も自尊心から生まれる。
希望は力の伴侶であり成功の母だ。
切に望むものはどんな奇跡でも成し遂げられる。」214
※自己肯定感。
自分のことを認める。
うぬぼれるわけでもなく、
自己否定に走るわけでもなく。
自分のことを、
まあ、これでいいのかな、
とそれなりに肯定できる感情。
それが自尊心。
その上に、
自己修養、克己心の芽が、
そして希望さえも育ちゆく。
「自尊心とは、
人間が見にまとう最も貴い衣装であり、
何ものにもまして精神を奮い立たせる。」214
※プライドというと、
何となく軽い感じがありますが、
生きているだけでもうけものというか、
生きていて良かった、
日々それなりに楽しいな、うれしいな、
と思える状態の、私でありたい。
『慎み深く正しい自尊心は、
立派で有意義な業績を生む土壌であり源泉である』
(詩人ミルトン)215
※うぬぼれまで行くと、
自虐的よりは良いような気もしますが、
慎み深く正しい、という前提は大切だと思います。
「下ばかり見ていては人は大志を抱けない。
向上したいと本心から望むなら、
顔を上げなくてはいけない。」215
※まず前をみよう。
とりあえず、
四十が目前に迫ってきて、
人生半分生きてしまった現実に向きあうと、
後ろを見ている時間が
もったいなくなって来ています。
「人生の成功は、
知識ではなく勤勉によって得られる。」217
※高学歴=人生の成功ではない。
そこから先に、
まだもう一山も二山もあるんだな、
とわかったところでしょうか、
『結局のところ、人生には真剣にならざるを得ない部分がある。』
(劇作家ダグラス・ジェロルド)218
※斜めにかまえて生きていても、
まっすぐ前をみて生きていても、
同じように人生は過ぎていく。
それならば、まっすぐ生きる方を選びたい。
「人間をつくるのは安楽ではなく努力……便利さではなく困難である。」222
※安楽に流れない。便利さに安住しない。
困難さに出会ったら、
ここで今、私は試されているんだ
と思えるようにしたい。
『私は、順調ではなやかな人生を送っている人間より、
失敗してもそれをめげず生きている人間に望みをかけている。』
(政治家チャールズ・フォックス)222
※失敗していない人間は、
ある種の弱さがあるということ。
しかしわざわざ失敗したい人間はいないわけで、
もし仮に、ぶざまな失敗をしてしまうことがあれば、
そこから先をどう生きるかによって、
真価が問われていると考えたい。
「『何を行なうべきか』に気づくのは、
『何を行なってはいけないか』を悟る時だ。
過ちを犯さなければ、
いつまでたってもそこに気づくことはない。」223
※過ちを恐れない。
それは難しいことかもしれない。
でもしかし、
過ちを糧とすること、
それは誰にでもできる。
過ちを過ちとして認めるすなおさを、
持てるようにしたい。
「逆境に置かれたり苦難を体験したりするのは、
考えただけでもゾッとする話だ。
だが実際に逆境と向きあうハメになったら、
勇猛果敢に戦わねばならない。
むしろ逆境の中でこそ、
われわれの力は発揮される。」226
※逆境に立ち向かう。
死なない程度に立ち向かう。
明らかに正気を保てなくなるような逆境であれば、
それは一時退散して、避難して、
ひたすら休養して、英気を養うべきでしょう。
ここで言っているのは、
それなりに元気で、
戦える力が余っているはずの状況で、
逆境から逃げてはいないのか、
ということだと思います。
『困難と闘いながら、人間は勇気を高め、才能をみがき上げていく。
われわれの敵は、実はわれわれの味方なのだ。』
(政治思想家バーク)227
※自分を高める生き方は、
簡単なことではありません。
でも充実した生き方です。
私は、そうした生き方を選びたいと思います。
「1000回あこがれるより、
たった一度でも勇敢に試してみるほうがずっと価値がある。」228
※あこがれる暇があったら、
目の前で見えることをまず実践すべし。
あこがれるのももちろん大切でしょう。
でもあこがれるだけで終わりそうな時には、
思い出したい言葉です。
『困難は乗り越えるためにある。
だから、ただちに困難と取り組め。』
(法律家リンドハースト)228
※困難から逃げない。
程度にはよる。
死ぬよりは、逃げたほうがいい。
ぶっ倒れるよりは、逃げたほうがいい。
でもギリギリまでは、努力したい。
一度の人生のうち、おそらく数回までなら、
ぶっ倒れるのもいいかもしれない。
ただそれは若いうちでないと、
そのままお別れになることもあるから、
気をつけましょう。
『とにかく努力を続けなさい。
そうすればいつか必ず自信と力が湧いてくるでしょう。』
(啓蒙思想家ダランベール)229
※とにかく努力は基本。
それがすべて。
すべては、そこからはじまります。
2011年4月3日日曜日
マザーテレサ『日々のことば』4月より
ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』
(女子パウロ会、2009年11月。初出は2000年6月)より。
◆4月3日
「わたしたちのしていることは、
大河の一滴に過ぎないと感じています。
けれど、もしその一滴がなければ、
海はその一滴分、確かに少ないということです。
わたしたちは数や量では考えません。
いつもそのとき、たったひとりの人を愛しているのです。
どんなときでも、いつも、
ひとりのその人に集中してお世話をしているのです。」111
※こんなことをしていて何になるのだろう、
と思うことは誰でもあるでしょう。
でも目の前にある仕事を
着実にこなせるかどうかが、
大切なんだと思って、
歩み出せるかどうか。
自分のようなものが、
仕事をさせていただいている、
という心持ちを持って、
歩き出す勇気が必要なんだと思います。
◆4月13日
「神の優しさの、生きている表現でありなさい。
あなたのまなざしに神の優しさが、
あなたの表情に神の優しさが、
あなたのほほえみに神の優しさが、
あなたの暖かいあいさつに、神の優しさが表れますように。
わたしたちは皆、ほんの少しお役に立ち、
そして、過ぎていく神の道具なのです。
思いやりの行為の表れ方は、
その行為そのものと同じように大切なことだと、
わたしは信じています。」122
※神さまという存在が
身近にあると、
神さまのあり方にわが身を近づけることによって、
自分の身を律することができるので、
その点はいいな、と思います。
より高いところにあるやさしさを、
より高貴なほほえみを、
より暖かいあいさつを、
今の自分がふつうにできることを、
あとほんの少し上のところに持っていく努力は、
忘れないようにしたいです。
つねに自分に磨きをかける努力は
忘れないようにしたいです。
◆4月15日
「たとえわたしの口が閉じていても、
わたしは目で三十分の間、
あなたに語りかけることができるでしょう。
あなたの目を見るだけで、
あなたの心が平安かどうか、見分けることができます。
わたしたちは喜び輝いている人々を見ます。
そしてその目の中に、
純粋さを見ることができるでしょう。
もし、わたしたちの心に静けさがほしいのなら、
まなざしに静けさを保つことです。
あなたの両方の目で、もっとよく祈れるようになりましょう。」124
※目で、語ること。
目が人を語る。
これは本当だと思います。
私はとてもとても、
まだまだそんな眼力はありません。
しかし本当にすぐれた人のまなざしに
すごい力があることはよくわかります。
心身に少しずつ磨きをかけて、
自分もいい目をした大人になれるように
心がけていきます。
◆4月22日
「お互いのつきあいは、誠実であるようにしましょう。
そして、
ありのままの自分たち自身を受け入れる勇気を持ちましょう。
お互いの失敗に驚いたり、
こだわったりしないようにしましょう。
むしろ、お互いのよい面を発見しましょう。
わたしたち一人ひとりは、
神の似姿として創られているのですから。」132
※まず誠実であること。
相手の良い面を
受け入れることは誰にでもできることでしょう。
でも相手の悪い面をを、
そのまま受け入れることはなかなかできません。
お互いに長所も欠点もある人間として、
お互いに認め合うことができるといいな。
どちらかと言えば、
短所はわかった上で、口に出さず、
長所をよく伸ばしていけたなら、
短所もしだいに薄まって来るようです。
◆4月29日
「簡単なほほえみで、
どれほどすばらしいことができるのか、
わたしたちは、
まったくわかっていないと言えるほどです。」139
※ほほえむことは、大切です。
とても大切です。
もし微笑むことができなくなっていたなら、
それは心が元気を失いかけている証拠なので、
ほうっておかないで、
しっかり治療するべきです。
登録:
投稿 (Atom)