松原泰道『釈尊のことば 法句経入門』
(祥伝社新書、平成22年3月。初出は昭和49年)
※正直なところ、第2章は、
私(栗木)とって少し雑然としておりました。
しばらく時間をおいてから、
改めて読み返したいと思います。
第2章 集諦(じったい)―無常と執着を乗り超える
(承前)
Ⅷ
『若きとき
身をつつしむ行ないを積まず
財(たから)を貯(たくわ)えざれば
彼は亡(ほろ)びゆくなり
餌(え)のなき池をまもり
老いゆく白鷺(しらさぎ)のごとくに』(一五五)122
「若いとこに自分の心身の整備を怠ると、
のちに自分自身を亡ぼすぞとの語りかけです。」124
「現代人は、持ち前の目先の賢さで、
若いときからせっせと財産づくりに勤勉です。
しかし『身をつつしむ行ない』を積むことには、
すこぶる弱い。」124
「老境の生活の貧しさを保護する社会福祉の途はあっても、
老いて心の貧困なのは救いようがありません。」124
『不放逸(ふほういつ)は
不死への道なり
放逸(ほういつ)は
死への路なり
不放逸に 死はなく
放逸は 死せるにひとし』(二一)123
※放逸(ほういつ)とは、煩悩(ぼんのう)すなわち、
私たちの心身を悩ませ乱す精神作用のままに行動すること。
不注意な生き方。恐れるものを持たぬ木目の荒い生活態度。
ただ外から刺激され誘われるままに、あちらこちらと転々し、
あれこれとつまみぐいする散漫な生き方。
(125・126頁を要約。)
※不放逸(ふほういつ)とは、注意深い生き方。
目に見えぬ存在を畏れ敬う木目の細かい生活態度。
身も口も意も慎む上にも畏れ慎んで歩くこと。
(126・127頁を要約。)
「赤ん坊を抱くときのあの綿密さで、
雑然としたわが心を看まもれ」127
Ⅸ
『心は
光のゆらぐごとく動き
持(たも)ちがたく 調(ととの)えがたし
賢(かしこ)き人は
よく自(みずか)らを正す
匠(たくみ)の箭(や)をよく
直(なお)くするがごとし』(三三)128
※心は環境のまにまに、ころころと転じつづける。
心の転じてゆく、好ましくない行き先は6ヵ所ある。
それは「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の六道(六趣)である。
憎しみや怒りが盛んになるのが「地獄」であり、
それは自己愛から生まれる。
欲深く、けち臭くなり、嫉んだり妬いたりするのが「餓鬼」であり、
それは我欲から生まれる。
弱肉強食。適者生存。
そのためには他を殺すことすら平気となるのが「畜生」であり、
それは本能から生まれる。
争いが生活の一部となるのが「修羅」であり、
それは闘争心から生まれる。
心の暴走がふと止まったとき、
息をのんで現場にたたずみ、
苦しみ、悲しみにくれる瞬間が「人間」である。
平常心。それは一瞬の静寂である。
苦を苦と自覚しないで、
エゴ的な、かりそめの安楽を求め、
空想にただようのが「天上」である。
天上で、我愛のままにふるまうことで、
他と争い、憎しみあって、ふたたび地獄に戻る。
これが「六道輪廻」である。
これらすべては人間の自主的に営む「業」
すなわち、私たちの身体と口と意が行う善悪の行為、
によって生まれる。運命・天命は関係ない。
(以上、129~132頁要約)
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