2011年3月21日月曜日

マザー・テレサ『日々のことば』1月

私はキリスト教徒ではありませんが、
マザー・テレサの言葉は、私の弱い心を励まし、勇気づけてくれます。


ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』(女子パウロ会、2009年11月)より。
※印は栗木によるコメントです。


◆1月4日
わたしたちが気がつかなくてはならない、大事なことがあります。
 ほんとうの意味で愛するということは、
 傷つくということなのです。

 事実、他の人たちを傷つけないで彼らに善いことをするためには、
 それが、わたしから何かを奪うことであっても、
 喜んで与えなくてはならないのです。
 このことは、
 傷つくまで与えることを、喜んで受け入れるよう要求します。

 そうでなければ、
 わたしの中にはほんとうの愛は存在しないということになり、
 周りの人たちに、平和でなく、不正をしてしまうのです。
」9

※愛するとは、
 自分が傷つくことを前提としている。

 とても深い指摘だと思います。

 自分が傷つくまで、
 喜んで相手に与えられるかどうか。

 それはやはり、
 まず自分にとって一番身近な、
 家族に対してどうなのか、が
 問われているのだと思います。

 嫌々では、
 相手にとってもありがたくありません。

 ただ愛する、
 といってもその内容は人それぞれであったりしますから、

 たとえ自分が傷ついても、
 喜んで、相手のためにできるのかどうか。
 大切な視点だと思います。


◆1月7日
すべては、祈りから始まります。
 愛する心を神にお願いすることなしには、
 愛する心を持つことはできないし、
 たとえ人を愛することができるとしても、
 ほんのちょっぴりでしかないでしょう。

 それはまるで、
 今日人々が貧しい人たちについて、たくさんのことを言いますが、
 貧しい人たちのことを知りもしないし、
 彼らに話しかけたこともない、というのと同じようなものです。
 わたしたちもまた、どう祈るのかをわかりもしないで、
 祈りについて多くを語ることはできません。
」13

※祈ることなしに、
 自分と向き合うことなしに、
 愛する心を実感することはできないでしょう。

 祈ることで、
 自らの心を整理し、
 自分の心と向き合って、
 愛するということを感じとるのです。

 祈ることについて、
 それを馬鹿にして、遠ざける風潮があるかもしれませんが、
 それはどう考えても誤りです。

 気分のままに
 生き、死に、犯し、犯される、殺し殺される世界に生きる
 野蛮人であることが理想ならば、

 祈る必要はないでしょう。

 でも愛情にあふれた、やさしい心を手に入れる上で、
 祈ることは基本です。


◆1月19日
この世界には、
 肉体的、物質的、そして精神的な多くの苦しみがあります。
 苦しみのあるものについては、
 他人の欲深さを責めることができるでしょう。
 肉体的、精神的な苦しみは、
 飢えや、帰る家がないこと、さまざまな病気からくる苦しみです。

 けれど、もっと大きな苦しみは、
 だれもそばにいてくれない、孤独で愛されていないことなのです。
 だれからも愛されないこと、
 これこそが、人類が経験することの中で、
 最悪の病気だということを、
 わたしはますます確信するようになりました。
」26

※肉体的、精神的なさまざまな苦しみの中で、
 もっとも大きな苦しみは、
 誰からも愛されない苦しみである。

 この指摘は、その通りだと思います。

 ただし、たったひとりで
 孤独の中で生きたことがある人でないと、
 今一つ実感はできないかもしれません。

 でも人は、
 本当に孤独になると、
 心の平静がたもてなくなり、
 正気を失って、
 ふつうに生きていくことが非常に困難になります。

 孤独であるそのこと自体が、
 苦しくて苦しくて仕方がないのです。

 でもそこから逃れたいと強く願うからこそ、
 人間としての新しい発展があるのだろうな、
 とも思います。


◆1月23日
謙虚であるということは、
 つねに神の偉大さと栄光の光を放っているということです。
 謙虚であることを通して、
 愛することができる人に成長するのです。
 謙虚さは、聖性の始まりです。
」30

※謙虚であることが大切なのは、
 当然わかっているはずのことですが、
 ちょっとした瞬間に、
 時々うっかり足を踏み外してしまいがちです。

 でも社会勉強で、
 いろいろな失敗を重ねていくうちに、
 謙虚であることの大切さが、
 身にしみてわかって来ました。

 でもやっぱり
 ついつい忘れがちなことですから、
 日々、自分に対して、
 謙虚であれ、と語りかけ続けたいと思います。


◆1月29日
家庭の外で人々にほほえむのは、たやすいことです。
 あまりよく知らない人をお世話することは、
 実はとてもやさしいことなのです。

 あなたの家の中で毎日会っている家族を、
 思いやりをもって、
 優しく、ほほえみを忘れずに愛しつづけることは、
 とてもむずかしいことです。

 時に疲れていたり、イライラしていたり、
 機嫌が悪かったりするときは、なおさらです。
 だれにでも、そんなときがあります。
 そんなときこそ、苦しむ姿のうちに救い主が、
 わたしたちのところにきておられるのです。
」36

※これはよく思い当たることではないでしょうか。

 外でニコニコして、
 無理してたまったストレスを、
 家に帰ってから家族にぶつけること。

 本来は、
 もっとも味方になってくれているはずの家族に対して、
 外であったイライラをぶつけてしまうこと。

 すぐに止めるべきことなのは、
 誰にも異論はないでしょう。

 でも大切なのは、それを実践できるのか、
 どうかです。

 思いやり、優しさ、ほほえみは、
 家族に対してこそ、持ち続けたいと思います。


◆1月30日
真の愛は、いつも傷つきます。
 人を愛することや、人と別れることは痛みを伴います。
 あなたは彼らのために、
 死ななければならないかもしれません。

 人々は結婚するとき、
 お互いのためにすべてを捨てます。
 子どもを産むとき、
 母親は苦しみます。

 それでこそわたしたちは、
 ほんとうに愛することができるのです。
 『愛』という言葉は誤解され、間違って使われています。
」37

※自分を傷つけても、
 自分の命を捨てても、
 相手を守りたいと思う感情を
 愛情といいます。

 とてもわかりやすい定義です。

 ただそんな愛情は、
 誰にでも抱ける感情ではありません。

 右を見ても、
 左を見ても愛しています、
 というのは、恐らく嘘があるのではないでしょうか。

 家族だからこそ、
 抱ける感情だと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿