私はキリスト教徒ではありませんが、
マザー・テレサの言葉は、私の弱い心を励まし、勇気づけてくれます。
ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなます みかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』(女子パウロ会、2009年11月)より。
※印は栗木によるコメントです。
◆1月4日
「わたしたちが気がつかなくてはならない、大事なことがあります。
ほんとうの意味で愛するということは、
傷つくということなのです。
事実、他の人たちを傷つけないで彼らに善いことをするためには、
それが、わたしから何かを奪うことであっても、
喜んで与えなくてはならないのです。
このことは、
傷つくまで与えることを、喜んで受け入れるよう要求します。
そうでなければ、
わたしの中にはほんとうの愛は存在しないということになり、
周りの人たちに、平和でなく、不正をしてしまうのです。」9
※愛するとは、
自分が傷つくことを前提としている。
とても深い指摘だと思います。
自分が傷つくまで、
喜んで相手に与えられるかどうか。
それはやはり、
まず自分にとって一番身近な、
家族に対してどうなのか、が
問われているのだと思います。
嫌々では、
相手にとってもありがたくありません。
ただ愛する、
といってもその内容は人それぞれであったりしますから、
たとえ自分が傷ついても、
喜んで、相手のためにできるのかどうか。
大切な視点だと思います。
◆1月7日
「すべては、祈りから始まります。
愛する心を神にお願いすることなしには、
愛する心を持つことはできないし、
たとえ人を愛することができるとしても、
ほんのちょっぴりでしかないでしょう。
それはまるで、
今日人々が貧しい人たちについて、たくさんのことを言いますが、
貧しい人たちのことを知りもしないし、
彼らに話しかけたこともない、というのと同じようなものです。
わたしたちもまた、どう祈るのかをわかりもしないで、
祈りについて多くを語ることはできません。」13
※祈ることなしに、
自分と向き合うことなしに、
愛する心を実感することはできないでしょう。
祈ることで、
自らの心を整理し、
自分の心と向き合って、
愛するということを感じとるのです。
祈ることについて、
それを馬鹿にして、遠ざける風潮があるかもしれませんが、
それはどう考えても誤りです。
気分のままに
生き、死に、犯し、犯される、殺し殺される世界に生きる
野蛮人であることが理想ならば、
祈る必要はないでしょう。
でも愛情にあふれた、やさしい心を手に入れる上で、
祈ることは基本です。
◆1月19日
「この世界には、
肉体的、物質的、そして精神的な多くの苦しみがあります。
苦しみのあるものについては、
他人の欲深さを責めることができるでしょう。
肉体的、精神的な苦しみは、
飢えや、帰る家がないこと、さまざまな病気からくる苦しみです。
けれど、もっと大きな苦しみは、
だれもそばにいてくれない、孤独で愛されていないことなのです。
だれからも愛されないこと、
これこそが、人類が経験することの中で、
最悪の病気だということを、
わたしはますます確信するようになりました。」26
※肉体的、精神的なさまざまな苦しみの中で、
もっとも大きな苦しみは、
誰からも愛されない苦しみである。
この指摘は、その通りだと思います。
ただし、たったひとりで
孤独の中で生きたことがある人でないと、
今一つ実感はできないかもしれません。
でも人は、
本当に孤独になると、
心の平静がたもてなくなり、
正気を失って、
ふつうに生きていくことが非常に困難になります。
孤独であるそのこと自体が、
苦しくて苦しくて仕方がないのです。
でもそこから逃れたいと強く願うからこそ、
人間としての新しい発展があるのだろうな、
とも思います。
◆1月23日
「謙虚であるということは、
つねに神の偉大さと栄光の光を放っているということです。
謙虚であることを通して、
愛することができる人に成長するのです。
謙虚さは、聖性の始まりです。」30
※謙虚であることが大切なのは、
当然わかっているはずのことですが、
ちょっとした瞬間に、
時々うっかり足を踏み外してしまいがちです。
でも社会勉強で、
いろいろな失敗を重ねていくうちに、
謙虚であることの大切さが、
身にしみてわかって来ました。
でもやっぱり
ついつい忘れがちなことですから、
日々、自分に対して、
謙虚であれ、と語りかけ続けたいと思います。
◆1月29日
「家庭の外で人々にほほえむのは、たやすいことです。
あまりよく知らない人をお世話することは、
実はとてもやさしいことなのです。
あなたの家の中で毎日会っている家族を、
思いやりをもって、
優しく、ほほえみを忘れずに愛しつづけることは、
とてもむずかしいことです。
時に疲れていたり、イライラしていたり、
機嫌が悪かったりするときは、なおさらです。
だれにでも、そんなときがあります。
そんなときこそ、苦しむ姿のうちに救い主が、
わたしたちのところにきておられるのです。」36
※これはよく思い当たることではないでしょうか。
外でニコニコして、
無理してたまったストレスを、
家に帰ってから家族にぶつけること。
本来は、
もっとも味方になってくれているはずの家族に対して、
外であったイライラをぶつけてしまうこと。
すぐに止めるべきことなのは、
誰にも異論はないでしょう。
でも大切なのは、それを実践できるのか、
どうかです。
思いやり、優しさ、ほほえみは、
家族に対してこそ、持ち続けたいと思います。
◆1月30日
「真の愛は、いつも傷つきます。
人を愛することや、人と別れることは痛みを伴います。
あなたは彼らのために、
死ななければならないかもしれません。
人々は結婚するとき、
お互いのためにすべてを捨てます。
子どもを産むとき、
母親は苦しみます。
それでこそわたしたちは、
ほんとうに愛することができるのです。
『愛』という言葉は誤解され、間違って使われています。」37
※自分を傷つけても、
自分の命を捨てても、
相手を守りたいと思う感情を
愛情といいます。
とてもわかりやすい定義です。
ただそんな愛情は、
誰にでも抱ける感情ではありません。
右を見ても、
左を見ても愛しています、
というのは、恐らく嘘があるのではないでしょうか。
家族だからこそ、
抱ける感情だと思います。
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