2011年3月23日水曜日

マザーテレサ『日々のことば』2月



ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなますみかこ訳
『マザー・テレサ 日々のことば』(女子パウロ会、2009年11月)より。
※印は、栗木によるコメントです。

◆2月2日
愛は、愛するというだけでは、
 何も残すことができません。
 それだけでは意味がないのです。
 愛は、行為に表れるものです。
 そして、その行為は奉仕です。

 愛のほんとうの意味は、
 神との結びつきからでなければ、わかることができません。
 その神との結びつきから、
 家族への愛、周りの人たちへの愛、貧しい人たちへの愛、
 これらが自然に身を結ぶのです。
」41

※この言葉を逆にたどると、

 奉仕という行為は、
 愛がなければ、
 成り立つものではありません。

 無償の愛、といいますが、
 自然とみずからを奉仕へとかりたてるものが、
 愛である、ということです。

 そんな愛情にあふれた人間に、
 わたしはなれるでしょうか。
 でもできるかぎり、
 そうありたいと思います。


◆2月6日
心から喜んで『与える人』は、
 人々に、すばらしい恵みを与えることのできる人です。
 快活さは、寛容で、自分を抑えることができる人の特徴です。

 自分が行うすべてのことを、
 神をお喜ばせすることに集中し、
 自分自身を含めたすべてのことを、
 忘れることのできる人です。

 快活さは、
 しばしば犠牲をささげる生活を覆い隠すマントであり、
 神との絶え間ない一致そのものなのです。
」45

※どんなことにおいても、
 明朗さ、快活さ、は大切だと思います。
 快活さがすべてを運んでくる、
 といっても言い過ぎではないでしょう。

 ですから、
 日々の生活に疲れてしまって、
 明朗、快活になれない自分、
 自然にほほえむことができない自分
 が出てきた時には、

 できるだけ早く気がついて、
 対応できるようにしておきたいものです。

 どうでも良いこととして
 ほうっておくと、いつの間にか
 心に余裕がなくなって、
 快活さ、明朗さを失って、

 誰にも見せたくない、嫌な自分、
 残念な自分が、心を支配するようになるでしょう。

 人はだれでも悪魔になれます。
 そうならないような生活を送ることが大切です。


◆2月8日
だれかを傷つけたとわかったら、
 まず先に謝る人になりましょう。

 わたしたちはゆるし合うことが必要だ、とわからなければ、
 人をゆるすことはできません。
 この、ゆるすことこそが、愛の始まりなのです。
」47

※ふだんから、誰かを傷つけたい、
 と思って生きている人は
 あまりいないはずなので、

 たまたま誰かを傷つけてしまったときに、
 自分が驚き、あわてて、言い繕ってしまって、
 まずあやまる、という大切なことを
 忘れてしまいがちです。

 でもこちらから謝って、
 許してもらうという経験は、
 不完全なわたしを認める、という意味で、
 とても大切なことだと思います。


◆2月10日
思いやりのある行為へのもっとも確かな近道は、
 言葉を使うことです。

 ただし、他人へのよいことのために使いましょう。
 もしあなたが、人のことをよく考えるのならば、
 人についてもよく話すようになるでしょう。

 言葉の暴力はとても恐ろしいものです。
 どんなナイフよりも鋭く人を傷つけます。
 言葉によって傷つき生まれた悲痛な苦しみは、
 神の恵み以外には、癒すことはできません。
」50

※思いやりのある行為として、
 声をかけることは、いちばん確かなことです。 

 しかしそれは心からのものでないと、
 相手にうまく伝わらないことが多いです。

 ふだん人のことを悪い方にばかり考えているのに、
 とっさの時に、思いやりのある言葉がかけられるはずがありません。

 声かけは大切ですが、
 それ以上に、
 自分の心を美しく保つことのほうが大切です。

 相手への思いやりとは、
 健全なわたしの心から、
 自然にあふれだすものでありたいと思います。


◆2月16日
今日の人々は、愛に飢えています。
 愛だけが、孤独とひどい貧困に対する唯一の答えとなるのです。
 
 飢える心配をする必要のない国もあります。
 けれど人々は、ひどい孤独とひどい絶望、
 ひどい恐怖心にさいなまれています。
 彼らは、だれからも求められていないという、
 拒絶される悲しみと、
 救いようもなく、希望のかけらもない気持ちを感じているのです。

 こういう人たちは、ほほえむことすら忘れてしまっています。
 そして、人間同士のふれあいの美しさも忘れてしまっています。
 人の愛など、とうの昔に忘れ去っています。
 こうした人たちには、彼らのことをわかろうとし、
 大切にしてくれる、だれかが必要なのです。
」57

※幸せでないと感じる一番の要因は、
 愛情の欠如です。

 それは少し考えてみれば、
 誰にでもわかることでしょう。

 孤独で誰からも愛されていない、
 たった一人の状態で、

 人は楽しく、喜びに満ちた生活を
 送ることができるでしょうか。

 わたしは誰からも必要とされていない、
 と毎日感じながら、楽しく生きていくことは、
 なかなか困難なことだと思います。

 すべてのもとになるのが、
 愛情に満たされた心であることは、間違いないでしょう。

 それがあれば、
 とりあえず、大体の困難は、
 困難ではなくなります。


◆2月24・25日
アッシジのフランシスコの平和の祈りを唱えましょう。
 この祈りが、わたしたち自身のものとなりますように。
 
 主よ、わたしを、あなたの平和の道具としてください。
 憎しみのあるところに、愛を、
 不当な扱いのあるところに、ゆるしを、
 分裂のあるところに、和解を、
 誤りのあるところに、真実を、
 疑いのあるところに、信頼を、
 絶望のあるところに、希望を、
 闇のあるところに、光を、
 悲しみのあるところに喜びを、
 もたらすことができますように。

 主よ、どうかわたしに、慰められるよりも慰めることを、
 理解されるよりも理解することを、
 愛されるよりも愛することを、
 人々にもたらすことを求めさせてください。
 自分を忘れることによって、ゆるされ、
 死ぬことによって永遠の命に生きるのですから。
 アーメン。
」67

※祈りの大切さ。

 私の心の弱さを、
 いろんな方面から救い上げてくれるのが祈りです。

 ポキリと折れてしまいそうなところで、
 今一歩踏み止まる力を与えてくれるのが祈りです。

 傲慢になりそうな私の心を、
 落ち着かせ、戒めてくれるのが祈りです。

 私はキリスト教徒ではありませんが、
 祈ることが大切なのは、
 どんな宗教にでもいえることでしょう。

 日々、南無阿弥陀仏と唱える生活が、
 わたしにとっての日常的な祈りの時間です。

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