2011年6月28日火曜日

鈴木鎮一 『愛に生きる ― 才能は生まれつきではない』 2章

鈴木鎮一 『愛に生きる ― 才能は生まれつきではない』 
(講談社現代新書、1966年8月)


◆2章 耕児君とわたしたち

芸術は人である。
 感覚と心と行為の美しさ、高さ―
 それこそ芸術を学び、
 追求するものの道である。

 わたしはそう信じ、
 そうあってくれるように、
 ということだけが、
 わたしの生徒たちへの願いでした
。」46

※芸術のもたらす影響は、
 それほど直接的な、即効性のあるものではないので、
 ついつい忘れてしまいがちです。

 恐らくは、芸術にたくさん触れていたからといって、
 学問なり、仕事なりが上手くいくわけでもないですし、
 お金が儲かる、ということもないでしょう。

 とはいえ、生き残ることだけが
 人生のすべてというのでは、
 何かしら物足りなく感じるのが、
 人間の人間たる理由でしょう。

 美しい心に導かれ、
 魂の深いところにある感動と向きあう経験は、
 人間らしく生きる上で、
 とても大切なものだと思います。 


わたしはつねに、
 きょうの日のことを最高に生きる―
 なにごとであれ、
 与えられた仕事、
 当面する仕事に集中し、
 全力を打ちこむことの喜びを知っていました。

 それは、若い日に道元禅師に教えられ、
 実践してきたことです。
」52

※目の前の現実に、
 不満を言わずに、
 与えられた仕事に集中する。

 何とか、慎ましやかな生活が成り立つのであれば、
 それなりの不遇に堪えて、
 数年の時を過ごす機会も必要でしょう。

 ただし、
 衣食住すらままならない状況では、
 食べる物もままならない状況では、
 目の前のことに集中することは難しいでしょう。

 食べられないのであれば、
 まず食べられるように仕事を見つける。
 その仕事の内容にこだわりをもたないこと。

 その覚悟が大切なんだなあ、
 と今では思います。


わたしは、
 すぐれたひとに接することが、
 どんなにあなたがた若いひとにとってだいじかということを、
 体験的に強く感じています。

 そうすることによって、
 わたしたちは無意識のうちに、
 自分の心・感覚・行為を高めていくものです。

 人格形成のうえで、
 これは根本条件だと思います。
」60

※すぐれた人に接すること。
 それは実際、大切なことですが、
 なかなかそういった機会に恵まれないことはあるでしょう。

 気をつけておきたいのは、
 接する私のほうで、
 すぐれた人に対する心の準備が出来ているか、
 ということです。

 自分にさまざまなわだかまりがある状態では、
 どんなにすぐれた人に接していても、

 相手への尊敬心よりむしろ、
 嫉妬心にさいなまれて、
 相手の長所から学ぶことはできないでしょう。

 偶然おきるよい出会いを
 素敵なものに変えるためにも、
 自分の心を、素直に、美しくしていきたいものです。


高い人間性―
 しかも、
 芸術によって身も心も洗い清められた
 偉大なひとびとに接することは、
 地上でいちばん大きなしあわせであることを、
 これからのあなたはいっそう身にしみて知るでしょう。

 そして、
 その偉さ、美しさをどれだけ感得できるか、
 そのことがあなたの人間としての価値となるでしょう。

 しかし、
 感知し、獲得する力は、
 自分を低きにおき、
 この地上におけるほんとうのものの価値を見つめ、
 真実と愛情と知識との積み重ねによってだけ生まれるものです。
」68

※ある行為の美しさを感じ取れるかどうかは、
 その行為を受け止める側の問題でもあります。

 私の心にもやがかかっていれば、
 どんなに偉大な人が目の前にいても、
 まったく気がつかずに通りすぎてしまうことになります。

 まず大切なのは、
 自分の心に磨きをかけて、
 私のまわりに広がる、さまざまな美しさを
 見落とさない感受性を
 つねに持てるようにしたい。

 そうした目は、
 自分をいつも低いところに置いて、
 つねに物事の本質を見つめ続けることによって
 獲得される。

 芸術によって、
 美しいものを美しいと感じる心が養われること。
 それは確かだと思います。

 そうした感受性は、
 人との出会いにおいて、
 よい出会いをたぐりよせる源にもなります。


けれども、
 いつのばあいでも、
 すぐれたものを感じとる営みは、
 相手によるのではない。

 それは自分自身のうちに
 感じとる力をもっていなければならない。

 より高いものを獲得するために、
 自分自身のうちなる力を
 より強く育てなければならない。

 そうすることのできるひとだけが、
 すぐれたひとのかたわらにいる
 しあわせをもちうるのです。

 つねに謙虚に―
 心おごるところからは、
 真実と偉大さを知る力が失われていく。
 このことを、どうか忘れないでください。
」69

※まず大切なのは謙虚であること。

 心おごるとはつまり、俺様が、
 と思うところから何も生まれないのは、

 頭にもやがかかってしまうから。

 冷静に考えれば、いかなる人間も、
 一人の力では生きられないわけですから、
 何がしかの運命によって、
 この世に生まれでてきたことを思えば、 

 人は自分の存在がいかにちっぽけで、
 かたじけないものであるかを悟るでしょう。

 心おごる気持ちのときは、
 この現実が見えなくなっているときですから、
 誤った前提で物事を見ている以上、

 物事の真実、行為の偉大さを感じとる
 素直な心も失われてしまいます。

 でも常におごりやすいのが自分の心なので、
 日々の生活の中で、私は今、奢っているのではないか、
 と語り直す時間を持つように心がけたい。


すぐれたひと―
 それはあたたかい心、
 高貴な魂、
 人間らしい素朴さをもった自然なひとです。
」71

※どんな人がすぐれているのか、
 これも案外、わからなくなりがちです。

 お金があるから、
 高学歴だから、
 地位が高いから、

 という見方も、手っ取り早い方法としては、
 絶対に間違いである、とは言えない所もあるでしょう。

 しかしここにいう
 「あたたかい心、高貴な魂、人間らしい素朴さをもった自然な人」
 のほうが、すぐれて人であることは間違いないでしょう。

 人を見る目、として、
 こういう人物を選ぶことができるか、

 それは私自身の問題でもあります。


あのすばらしい曲を、
 あなたはお客さまのためにひくのですか。
 みせものじゃないんですよ。

 お客さまのためのショーのように考えるのはおやめなさい。
 まちがえてもかまわない。
 まちがったらひき直せばいい。

 あなたは今夜、
 あのすばらしい曲の作者ショーソンの霊に向かっておひきなさい。
 ショーソンの、あのすばらしい詩の心・感動に対して、
 あなたの感動を訴えるのです。

 そうすればなんの心配もいらない。
 あなたとショーソン以外はだれもいない。
 なにもない世界なんですよ。

(ショーソン『詩曲』の演奏に際して)73

※芸術って何だろう。

 コンサートを開いて、
 お金をいただいて生活をしていくのであれば、
 そのお客さまのために弾くことは、
 絶対に間違いだとは言えないでしょう。

 でもそこまでで、
 完全に止まってしまうのであれば、
 案外つまらない話となってしまいます。

 このショーソンの霊に捧げるために弾く、
 という考え方は、とても素敵なものだと思います。

 音楽の神さまへ、より高い、何がしかの力のために、
 自分の力を捧げる、という考え方のほうが、

 芸術というものの本質を表しているように思います。

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